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2008年4月 アーカイブ

2008年4月29日

紀州家8代目藩主徳川重倫は高尾山に厚く帰依していましたが、9代目藩主徳川治貞の時代になると、紀州家の財政難により、高尾山への奉納金がカットされてしまいます。このため、紀州家との縁を通じて江戸の武家社会への浸透をはかり、江戸での基盤を強化していった高尾山は、巻き返しをはかることになります。

治貞は間もなく隠居し、10代目藩主に徳川治宝が就任します。この紀州家の代替りを機に、高尾山は様々なルートを通じて、紀州家に働きかけていきます

その具体的な内容は良く分からないのですが、紀州家からは葵の紋所が付いた戸帳や提灯を寄進されるようになったり、江戸出開帳の時は御殿女中の参詣もみられるようになりました。藩主に仕える御殿女中たちに働きかけていた様子が想像できます。

将軍で言えば、大奥の奥女中たちを味方につける形で、高尾山は紀州家との縁を復活させようとしたのです。こうして、再び物心両面での強力なバックアップを受けることになります。なお、高尾山は同じ御三家の尾張家の子孫繁栄の護摩祈祷をおこなっています。

尾張家や紀州家だけではありません。福井藩主松平家、浜田藩主松平家など数多くの大名家も護摩檀家でした。殿様だけでなく、家臣たちにも配札していますから、紀州家と同じく、大名家全体に高尾山の名前は浸透していったのです。

ところで、武士への配札と言っても、その対象は徳川御三家の大名から与力・同心などの御家人までバラエティーに富んでいましたが、その方式には6つのランクがありました。大箱札、箱札、中奉書台附、小奉書台附、包札、札守の6つです。

詳しいことは分かりませんが、最も厚遇されていたのが大箱札組で、段々と薄礼になっていくのでしょう。大きな箱に納められた護摩札を届けられるのが一番で、台の上に載せられて届けられるのが中くらい。包紙の中に収められて届けられるのは下のランクで、包紙にも収められないのは最も下のランクということになるわけです。永代護摩供養料とは別に奉納される金額に、比例したランク付けなのでしょう。

2008年4月22日

重倫が藩主時代は、紀州家と高尾山との関係はたいへん強いものでした。ですから、重倫の家族だけでなく、紀州家の家臣たちにも高尾山を厚く信仰する者が大勢いたでしょう。紀州家の江戸屋敷には、家臣だけで1000人以上はいました。家族も含めればその数倍。

そして、紀州家には分家もいくつかあります。高尾山としては、本家たる紀州家を通して分家への浸透も期待したことでしょう。紀州家の当主に跡継ぎがいなければ、分家から養子に入るわけですから、紀州家とのゆかりを永続的なものにするには、分家からも帰依を受けておく必要がありました。

さらに、紀州家は徳川将軍家の実家にもなっていましたので、将軍やその家臣たちへの浸透も期待できたわけです。ですから、紀州家を護摩檀家であることは、はかりしれないメリットを生んでいたのです。

しかし、高尾山に深く帰依していた重倫が隠居すると、紀州家の方針が変わってしまったようです。紀州家からの祈祷依頼の回数が激減し、天明6年(1786)には、祈祷料の奉納まで取り止められてしまっています。

正月・5月・9月の年3回、護摩檀家には護摩札を配札していましたが、紀州家ではその度に、ある程度のお金を高尾山に奉納していました。護摩札を配札されると、紀州家に限らず、大名や商人などは永代護摩供養料とは別に奉納金を納めていたようです。これを中止してしまったのです。

別に、高尾山に落ち度があったわけではありません。紀州家の懐事情が理由なのでした。

当時、紀州家は財政難に苦しんでいました。そのため、支出を切り詰めて財政再建をはかろうという倹約の方針が強力に推進されていたのですが、高尾山への祈祷料も、そのターゲットになってしまったわけです。

護摩札を配札した時、高尾山は紀州家に御守りも届けていたようですが、同じく天明6年に、紀州家では以後届けるに及ばないと申し渡しています。お守りが届けられるたびに、何らかの奉納金を納めていたのでしょう。それを節約したかったのです。

護摩檀家という関係を通して紀州家に食い込み、様々な形でお布施を受けていた高尾山でしたが、この一連の経緯からは、紀州家にとっては高尾山へのお布施がかなりの負担になっていたことが分かります。言い換えると、それだけ高尾山の経営にとってはプラスになっていたということでもあります。

しかし、こうした紀州家の対応は経営基盤に直結する問題です。当然、高尾山は危機感を強めます。紀州家へのアプローチを強力に展開していくのです。

2008年4月15日

「江戸田舎日護摩講中元帳」に登録されている護摩檀家の人数ですが、約300軒と言います。一見少ないように見えますが、家族の数も含めれば1000人ぐらいになるでしょう。それに、この数字は護摩檀家だけの数であり、成田講や川崎大師講の事例でみたような様々な目的で結成された講中は別にあります。その高尾講のメンバーも含めれば、高尾山の信者は、軽くその数倍は行きます。

護摩檀家には町人はもちろんですが、武士もいます。武士と言っても、与力・同心といった御家人から大名まで格差は激しいのですが、徳川姓の大名もいました。

徳川姓の大名とは、徳川御三家紀州家のことです。暴れん坊将軍こと吉宗の実家として、御三家のなかでは事実上のトップの権威を誇っていました。この葵の御紋を檀家にしていたことは、高尾山にとり非常に大きなメリットでした。

高尾山に限らず、お寺は大名の帰依を受けることに熱心でした。大名の帰依を受けることができれば、大名当人だけでなく、その家中にもお寺の名前を浸透させることができるからです。主君の大名が帰依すれば、家臣たちも倣います。こうして、大名の家族はもちろんですが、家臣の家族にも信者を増やしていくことができるのです。

高尾山と紀州家のゆかりは、吉宗の時にはじまります。吉宗は鷹狩りの好きな将軍でしたが、享保3年(1718)に、幕府と実家紀州家の鷹匠による放生会が高尾山で開かれます。これ以降、紀州家との縁が深くなっていきます。この行事をチャンスに、紀州家に食い込んでいったわけです。

吉宗の跡を継いで紀州家の殿様となった6代目藩主徳川宗直は、不動明王と護摩檀を高尾山に寄進しています。7代目藩主徳川宗将も、不動明王と自筆の経典を寄進しています。

8代目藩主徳川重倫に至っては、自分の病気平癒のほか、夫人の安産祈願などの祈願を依頼しています。紀州家の祈祷所になっていたのです。江戸屋敷に招いて、祈祷してもらうこともありました。
ところが、安永4年(1775)に重倫が隠居すると、紀州家との関係は疎遠になっていきます。一体、何があったのでしょうか。

2008年4月 8日
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高尾山に残されている「江戸田舎日護摩講中元帳」という帳簿は、文化6年(1809)以降の護摩檀家の動向が分かる帳面ですが、「江戸田舎」とは江戸とそれ以外の地方のことを指します。

ここで講中という言葉が出て来ますが、どうも高尾山は護摩檀家以外の者も含めて、護摩の配札対象である信者を、講中として組織化し直したようです。その組織名が、「江戸田舎日護摩講中」というわけなのです。

護摩檀家とは、永代護摩供養料を納めた者です。この帳簿では「永代施主」とも呼ばれていますが、この頃には数年間という期限付きで護摩供養料を納めていた者もいたようです。数年間だけ、配札を受けるというわけです。一年だけという事例もありましたが、一年だけですと、その講中の帳簿には名前は載らなかったようです。

永代で護摩札の配札を受ける護摩檀家の数が伸び悩んでいたわけですが、数年間だけというのは、檀家数増加のための苦肉の策だったのではないでしょうか。護摩檀家か納めた永代護摩供養料よりも、その額は少なかったはずです。護摩檀家よりも護摩講中という緩やかな形に組織化し直すことで、さらなる信者の獲得を目指したのでしょう。

「江戸田舎日護摩講中」のデータを見ていくと、加入者の特徴として、高尾山・八王子周辺で半分ほど、江戸で4分の1を占めていることが分かります。時代が下るにつれて、地元での支持基盤を固めていった様子が分かりますが、そうは言っても、江戸の講中にはたいへん気を使っています。

例えば、江戸の講中のメンバーの家には、薬王院の使者が1軒ずつ訪れて、護摩札を配札しています。永代のみならず、数年間だけ配札を受ける者の家にも、薬王院の使者が1軒ずつ訪れています。他の地域の場合は、薬王院の使者が届ける場合もありますが、檀家を介して配札される事例も多かったようです。

ちなみに、高尾山から直接配札を受ける者を、高尾山は「上段之施主」。檀家を介して配札を受ける者を「下段之施主」と呼んでいました。

2008年4月 1日

高尾山は永代護摩供養料(金2分)を納めた護摩檀家に、年3回(正月・5月・9月)、護摩札を配札することになっていました。元禄の頃の記録によると、護摩檀家は圧倒的に江戸町人で占められていました。

しかし、享保~延享年間(1716~1748)に入ると、高尾山近在をはじめ、八王子や武蔵国多摩郡西南部で護摩檀家が増えはじめます。そして、宝暦・天明年間(1751~1789)には、武蔵国中北部や隣の甲斐国中東部の人々でも護摩檀家となる事例が増えていきます。

当初は高尾山周辺の人々や、江戸町人を基盤としていた高尾山でしたが、時代が下るにつれて、江戸近在である多摩郡一帯そして関東一円へと支持基盤を広げていったことが、この帳簿から分かるわけです。こうして、江戸だけでなく関東近在からも、参詣者が高尾山に向かうことになります。

一方、享保期以降になると、高尾山の護摩檀家に加入する江戸町人の増加傾向に歯止めが掛かってしまいます。その理由は良くわからないのですが、市場の競争が激しかったのでしょう。

護摩檀家という形で信者を獲得する事例は、高尾山以外、確認できていません。しかし、他のお寺が高尾山の手法に目を付けて、同じ形で信者の獲得を目指したとしても、何の不思議もありません。

競争相手が増えれば、百万都市とは言え、護摩檀家への加入者が増えなくなるのは当然のことでしょう。もしかしたら、そうした市場の飽和状態を踏まえて、高尾山は江戸近在や関東一帯へのアプローチを強めていったのかもしれません。

「永代日護摩家名記」という帳簿は、残念ながら天明期で記録が終わっています。その後、20年ほど記録を欠いてしまうのですが、文化6年(1809)以降ですと、護摩檀家の動向が分かります。「江戸田舎日護摩講中元帳」という帳簿が残されており、この年以降のデータが収められているのです。次では、この帳簿を見ていくことにしましょう。

江戸時代、お寺参りは町人たちのレジャーでした。当時世界一の人口規模を誇った観光都市江戸では、お寺がありとあらゆる工夫を凝らし、現代の広告代理店さながらの参詣客の争奪戦が繰り広げられておりました。江戸研究家の安藤優一郎が語る、お寺にまつわる江戸の人間模様。
→ブログに登場する江戸名所の地図
安藤 優一郎 / 文
1965(昭和40)年千葉県生まれ。歴史家。江戸時代を専門とする。文学博士(早稲田大学)。NHK文化センターなどで生涯学習講座の講師を勤める。著書『徳川将軍家の演出力』『観光都市江戸の誕生』(新潮新書)では寺社の経営戦略を、新刊『江戸城・大奥の秘密』(文春新書)では、大奥とお寺の深いつながりを明らかにした。
→著者公式サイト
→著者ブログ「江戸探訪記」
→著者ブログ「大江戸グルメ日記」
加藤 円正 / イラスト
昭和51年愛媛県生まれ。人口100人ほどの瀬戸内に浮かぶ島にある、お寺の住職。イラストレーション、板目木版を中心に絵を描く。妖怪と時代劇とロックンロールを好む。2005年『怪』(角川書店)「第二回怪大賞」にて京極夏彦氏より妖怪版画で京極賞を受賞。
→イラストレーター公式サイト