護摩檀家を記録した「永代日護摩家名記」という帳簿には、元禄年間(1688~1704)から天明年間(1781~1789)までの記録が収められています。この帳簿に記された護摩檀家に、高尾山は護摩札を永久に配付し続けたわけなのですが、元禄の頃の記録をみると、護摩檀家の大半は江戸に住む町人でした。
当時の江戸の状況を見てみます。
元禄と言うと、江戸幕府が開かれてから1世紀経過した頃ですが、当時江戸の人口は百万人を超え、名実ともに世界最大の都市に成長していました。江戸は世界最大のマーケットでしたが、その巨大マーケットに進出して、新たな信者を獲得しようという動きは当然出てくるでしょう。元禄年間は開帳ブームと称されるほど、全国各地のお寺が次々と江戸出開帳した時期でもあったことは、既に成田講の章などで見たとおりです。
この時期、高尾山は江戸出開帳はしなかったようですが、他のお寺と同じく、江戸への進出ははかっていました。永代に護摩を配付するという形で、つまり護摩檀家という形で多くの信者を獲得していったのです。
ただし、金2分の納入という前提条件がありました。ある程度の経済力がないと護摩檀家に加入することはできなかったわけですが、さすがに江戸は経済力ある町人たちが大勢いました。高尾山としては、地元や江戸近郊の農村よりも、巨大都市として発展を続けていた江戸の町人に大いに期待したのでしょう。積極的にアプローチした結果、多数の護摩檀家を獲得できたのです。
こうして、高尾山の基盤は江戸に置かれていくことなります。これにより、江戸からの参詣者も増加することになり、経営基盤も強化されていきます。護摩札をいただくだけでは満足せず、高尾山に参詣して、護摩を焚いてもらい、お札をいただいて帰ったことでしょう。成田講や川崎大師講の事例でみたように、江戸の富が高尾山にも落ちていくのです。
高尾山が最初に江戸出開帳をおこなったのは、元文3年(1738)のことと言われます。将軍で言うと、8代吉宗の頃です。江戸出開帳にあたっては、江戸の講中をはじめとする信者の助力が不可欠だったわけですが、この頃には江戸での支持基盤が固まっていたということなのでしょう。そうした判断のもと、本尊とともに江戸に出向いていったわけなのです。