2008年3月25日

護摩檀家を記録した「永代日護摩家名記」という帳簿には、元禄年間(1688~1704)から天明年間(1781~1789)までの記録が収められています。この帳簿に記された護摩檀家に、高尾山は護摩札を永久に配付し続けたわけなのですが、元禄の頃の記録をみると、護摩檀家の大半は江戸に住む町人でした。

当時の江戸の状況を見てみます。
元禄と言うと、江戸幕府が開かれてから1世紀経過した頃ですが、当時江戸の人口は百万人を超え、名実ともに世界最大の都市に成長していました。江戸は世界最大のマーケットでしたが、その巨大マーケットに進出して、新たな信者を獲得しようという動きは当然出てくるでしょう。元禄年間は開帳ブームと称されるほど、全国各地のお寺が次々と江戸出開帳した時期でもあったことは、既に成田講の章などで見たとおりです。

この時期、高尾山は江戸出開帳はしなかったようですが、他のお寺と同じく、江戸への進出ははかっていました。永代に護摩を配付するという形で、つまり護摩檀家という形で多くの信者を獲得していったのです。

ただし、金2分の納入という前提条件がありました。ある程度の経済力がないと護摩檀家に加入することはできなかったわけですが、さすがに江戸は経済力ある町人たちが大勢いました。高尾山としては、地元や江戸近郊の農村よりも、巨大都市として発展を続けていた江戸の町人に大いに期待したのでしょう。積極的にアプローチした結果、多数の護摩檀家を獲得できたのです。

こうして、高尾山の基盤は江戸に置かれていくことなります。これにより、江戸からの参詣者も増加することになり、経営基盤も強化されていきます。護摩札をいただくだけでは満足せず、高尾山に参詣して、護摩を焚いてもらい、お札をいただいて帰ったことでしょう。成田講や川崎大師講の事例でみたように、江戸の富が高尾山にも落ちていくのです。

高尾山が最初に江戸出開帳をおこなったのは、元文3年(1738)のことと言われます。将軍で言うと、8代吉宗の頃です。江戸出開帳にあたっては、江戸の講中をはじめとする信者の助力が不可欠だったわけですが、この頃には江戸での支持基盤が固まっていたということなのでしょう。そうした判断のもと、本尊とともに江戸に出向いていったわけなのです。

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.higan.net/apps/mt-tb.cgi/2167

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)

江戸時代、お寺参りは町人たちのレジャーでした。当時世界一の人口規模を誇った観光都市江戸では、お寺がありとあらゆる工夫を凝らし、現代の広告代理店さながらの参詣客の争奪戦が繰り広げられておりました。江戸研究家の安藤優一郎が語る、お寺にまつわる江戸の人間模様。
→ブログに登場する江戸名所の地図
安藤 優一郎 / 文
1965(昭和40)年千葉県生まれ。歴史家。江戸時代を専門とする。文学博士(早稲田大学)。NHK文化センターなどで生涯学習講座の講師を勤める。著書『徳川将軍家の演出力』『観光都市江戸の誕生』(新潮新書)では寺社の経営戦略を、新刊『江戸城・大奥の秘密』(文春新書)では、大奥とお寺の深いつながりを明らかにした。
→著者公式サイト
→著者ブログ「江戸探訪記」
→著者ブログ「大江戸グルメ日記」
加藤 円正 / イラスト
昭和51年愛媛県生まれ。人口100人ほどの瀬戸内に浮かぶ島にある、お寺の住職。イラストレーション、板目木版を中心に絵を描く。妖怪と時代劇とロックンロールを好む。2005年『怪』(角川書店)「第二回怪大賞」にて京極夏彦氏より妖怪版画で京極賞を受賞。
→イラストレーター公式サイト