2008年2月19日

京浜電気鉄道とは、現在の京浜急行のことです。既にこの頃には、川崎駅から川崎大師まで鉄道が開通していました。現在の京浜急行大師線です。

東海道線が開通して川崎駅が設置されてから、東京と川崎大師の距離は格段に縮まりました。しかし、そうは言っても、川崎駅から2キロほどは歩かなければなりません。ここに至り、鉄道敷設の機運が高まります。

ついに、明治32年(1899)1月に、多摩川縁の六郷橋駅と大師駅を結ぶ大師電気鉄道が開業します。大師駅とは現在の川崎大師駅のことですが、この大師電気鉄道こそが京浜急行電鉄のはじまりでした。そもそも、京浜急行は川崎大師参詣者のために敷設された鉄道にはじまるというわけです。なお、4月に大師電気鉄道は京浜電気鉄道に社名が変更されます。

明治35年(1902)には、川崎駅への乗り入れがはじまります。さらに、川崎大師は東京との距離を縮めることになりました。そして、後には品川まで線路が延長され、現在の京浜急行の原形が出来上がります。

大正14年の開帳に話を戻します。
この頃は、品川から川崎経由で大師駅まで鉄道が延びていました。並行して走る東海道線もありましたが、川崎大師としては川崎大師までの路線を持つ京浜電気鉄道に期待するところは大きかったでしょう。そのため、開帳ポスター掲示への協力を大いに期待したわけです。京浜電気鉄道側にしても、参詣者が乗車してくれれば、それだけ収入はアップします。まさに、持ちつ持たれつなのでした。

さて、開帳に先だって、川崎大師では供養塔を準備していますが、その用材を川崎から運び込みます。牛3頭で牽いたそうですが、その行列に講社のメンバーも参加しています。

もちろん、川崎大師側からも人が出ますが、講社が行列に彩りを添えました。豆撒講、念仏講、川崎護摩講、内陣畳講のメンバーが行列に参加し、たいへんな賑わいになりました。その行列を見物する人たちの数も半端ではなかったようです。開帳に先立っての大デモンストレーションなのでした。

豆撒講は節分の時に豆を撒く人たち、念仏講は念仏を唱える人たちで結成された講です。護摩講は川崎の町の人たちで結成された講ですが、護摩木を寄進するコンセプトで結成された講社でしょうか。内陣畳講とは、本尊たる厄除け大師を安置してある部分(内陣)の畳を寄進するコンセプトで結成された講社でしょう。

江戸出開帳の時は、江戸の大師講が厄除け大師の江戸入り道中の行列人数に加わっていたわけですが、居開帳の時も、江戸の大師講ではなかったようですが、講社が同じような役割を担っていたのでした。

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江戸時代、お寺参りは町人たちのレジャーでした。当時世界一の人口規模を誇った観光都市江戸では、お寺がありとあらゆる工夫を凝らし、現代の広告代理店さながらの参詣客の争奪戦が繰り広げられておりました。江戸研究家の安藤優一郎が語る、お寺にまつわる江戸の人間模様。
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安藤 優一郎 / 文
1965(昭和40)年千葉県生まれ。歴史家。江戸時代を専門とする。文学博士(早稲田大学)。NHK文化センターなどで生涯学習講座の講師を勤める。著書『徳川将軍家の演出力』『観光都市江戸の誕生』(新潮新書)では寺社の経営戦略を、新刊『江戸城・大奥の秘密』(文春新書)では、大奥とお寺の深いつながりを明らかにした。
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加藤 円正 / イラスト
昭和51年愛媛県生まれ。人口100人ほどの瀬戸内に浮かぶ島にある、お寺の住職。イラストレーション、板目木版を中心に絵を描く。妖怪と時代劇とロックンロールを好む。2005年『怪』(角川書店)「第二回怪大賞」にて京極夏彦氏より妖怪版画で京極賞を受賞。
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