2008年2月 5日

残念ながら、川崎大師の場合、江戸の頃の大師講の動きは良くわかりません。ですが、明治以降の記録に大師講が登場しますので、その記録から江戸の様子を想像して見たいと思います。

明治に入っても、成田山などは江戸改め東京で出開帳を実施しています。しかし、川崎大師は明治に入ると、東京での出開帳は中止してしまいます。

東京で出開帳しなくても、東京から川崎大師への人の流れは確実なものになっているという認識があったのかも知れませんが、最大の理由は交通事情の改善です。

明治5年(1872)に、新橋~横浜間に鉄道が開通します。川崎駅も設置され、川崎大師と東京との距離は格段に縮まりました。川崎大師駅が設置されるのは後年のことですが、川崎まで鉄道で行けるようになった事実は、たいへん大きかったことは言うまでもありません。

江戸から川崎大師までは20キロぐらいありました。江戸の人は健脚で、旅に出ると、1日40キロ歩いたと言われます。しかし、それにしても日帰りで往復するとなると、大変です。朝早く、江戸を出立しなければなりませんでした。

そのため、ご本尊が江戸まで出開帳にやって来るということになるわけですが、鉄道の開通により、川崎駅から川崎大師まで歩けば済むことになりました。距離にして僅か2キロほどですから、川崎駅からは往復で1時間で済みます。

ですから、川崎大師は出開帳は中止して、居開帳一本になるのですが、居開帳であっても、開帳にあたっては講社の力が必要な事情は同じでした。明治9年(1876)に、川崎大師は開帳をおこないますが、その折には東京講社といろいろ相談しています。残念ながら、その中身までは分かりませんが、開帳情報の周知徹底と、物心両面での協力依頼であることは間違いないでしょう。

明治37年(1904)は日露戦争が起きた年ですが、川崎大師では戦勝祈願と戦没者追悼会を兼ねて居開帳をおこなっています。大師講の講員のうち、出征した軍人の数は数千人にも及んだと言います。出征した軍人のために、山主は開帳中、長期間にわたって息災祈願を行っています。

大正14年(1925)にも、川崎大師は居開帳をおこなっているのですが、その時の裏舞台が見えてくるような資料が残されています。以下、その資料を読みながら、大師講に期待された役割などを見ていきたいと思います。

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江戸時代、お寺参りは町人たちのレジャーでした。当時世界一の人口規模を誇った観光都市江戸では、お寺がありとあらゆる工夫を凝らし、現代の広告代理店さながらの参詣客の争奪戦が繰り広げられておりました。江戸研究家の安藤優一郎が語る、お寺にまつわる江戸の人間模様。
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安藤 優一郎 / 文
1965(昭和40)年千葉県生まれ。歴史家。江戸時代を専門とする。文学博士(早稲田大学)。NHK文化センターなどで生涯学習講座の講師を勤める。著書『徳川将軍家の演出力』『観光都市江戸の誕生』(新潮新書)では寺社の経営戦略を、新刊『江戸城・大奥の秘密』(文春新書)では、大奥とお寺の深いつながりを明らかにした。
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加藤 円正 / イラスト
昭和51年愛媛県生まれ。人口100人ほどの瀬戸内に浮かぶ島にある、お寺の住職。イラストレーション、板目木版を中心に絵を描く。妖怪と時代劇とロックンロールを好む。2005年『怪』(角川書店)「第二回怪大賞」にて京極夏彦氏より妖怪版画で京極賞を受賞。
→イラストレーター公式サイト