大正14年の居開帳は、このような準備過程を経て実施されることになります。そこでも、川崎大師側が大師講に期待するところは大きく、いろいろと気を使っています。そうした事情は、成田山(成田講)の場合と全く同じでした。
開帳中、大師講のメンバーは大挙、関東各地から御参りにやって来ます。川崎大師側では、その接待に気を使っています。御参りした後は坊入りという段になるわけですが、さすがに大人数なので、食事の準備は大変でした。
このため、折詰弁当で接待する形を取っていますが、江戸の頃も、居開帳の場合は同じ形を取ったのではないでしょうか。普段の参詣でしたら、何とかなるのでしょうが、開帳という大イベントの時は参詣者の数も多く、調理に手が回らなかったことでしょう。その事情に変わりはなかったはずです。
川崎大師にとって、大師講からの物心両面の協力はたいへん心強いものでした。戦後の川崎大師の堂社復興事業でも、その果たした役割は大きく、本堂などの再建費のほか、境内の遍路大師像や大山門の額なども寄進しています。堂社のハード面の整備に実に大きく貢献しているのです。
大師講の場合、講社どうしのヨコのつながりはあまりなかったそうですが、昭和38年(1963)9月8日、川崎大師講社連合会が発足しました。翌年に、川崎大師は戦後最初の開帳を実施する予定でしたが、それを見据えての結成でしょう。講社の組織化を通じて、開帳へのバックアップの体制を強固なものにしたい川崎大師の意図が伝わってきます。
開帳中、川崎大師は布教伝導にも力を入れています。檀家は別ですが、講社の場合は、厄除け大師とのつながりは、その人一代のものでした。講社に入るのも、講社から出るのも、当人の意思次第でした。
講員にとっては、入退会は自由でした。だからこそ、当の寺院としては、数多くの人々を短期間にメンバーに加入させることも可能でしだが、逆も成り立ちます。
ですから川崎大師側としては、こうした開帳の機会を通じて、厄除け大師とのつながり、つまり講員としての継続を確実なものにしたいという気持ちは、当然あったことでしょう。できれば、次の代になっても講員として継続して欲しいと期待するでしょう。もちろん、新たに講員となって欲しいという気持ちもあったことでしょう。
講社の維持とその拡大という意図のもと、川崎大師は開帳中、布教伝導に力を入れたわけです。それは成田山や他の寺院にもあてはまることでしょう。江戸の頃の江戸出開帳や居開帳の時にも、同じような光景が展開されていたのに違いないのです。