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2008年2月 アーカイブ

2008年2月26日
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大正14年の居開帳は、このような準備過程を経て実施されることになります。そこでも、川崎大師側が大師講に期待するところは大きく、いろいろと気を使っています。そうした事情は、成田山(成田講)の場合と全く同じでした。

開帳中、大師講のメンバーは大挙、関東各地から御参りにやって来ます。川崎大師側では、その接待に気を使っています。御参りした後は坊入りという段になるわけですが、さすがに大人数なので、食事の準備は大変でした。

このため、折詰弁当で接待する形を取っていますが、江戸の頃も、居開帳の場合は同じ形を取ったのではないでしょうか。普段の参詣でしたら、何とかなるのでしょうが、開帳という大イベントの時は参詣者の数も多く、調理に手が回らなかったことでしょう。その事情に変わりはなかったはずです。

川崎大師にとって、大師講からの物心両面の協力はたいへん心強いものでした。戦後の川崎大師の堂社復興事業でも、その果たした役割は大きく、本堂などの再建費のほか、境内の遍路大師像や大山門の額なども寄進しています。堂社のハード面の整備に実に大きく貢献しているのです。

大師講の場合、講社どうしのヨコのつながりはあまりなかったそうですが、昭和38年(1963)9月8日、川崎大師講社連合会が発足しました。翌年に、川崎大師は戦後最初の開帳を実施する予定でしたが、それを見据えての結成でしょう。講社の組織化を通じて、開帳へのバックアップの体制を強固なものにしたい川崎大師の意図が伝わってきます。

開帳中、川崎大師は布教伝導にも力を入れています。檀家は別ですが、講社の場合は、厄除け大師とのつながりは、その人一代のものでした。講社に入るのも、講社から出るのも、当人の意思次第でした。

 講員にとっては、入退会は自由でした。だからこそ、当の寺院としては、数多くの人々を短期間にメンバーに加入させることも可能でしだが、逆も成り立ちます。

ですから川崎大師側としては、こうした開帳の機会を通じて、厄除け大師とのつながり、つまり講員としての継続を確実なものにしたいという気持ちは、当然あったことでしょう。できれば、次の代になっても講員として継続して欲しいと期待するでしょう。もちろん、新たに講員となって欲しいという気持ちもあったことでしょう。

講社の維持とその拡大という意図のもと、川崎大師は開帳中、布教伝導に力を入れたわけです。それは成田山や他の寺院にもあてはまることでしょう。江戸の頃の江戸出開帳や居開帳の時にも、同じような光景が展開されていたのに違いないのです。

2008年2月19日

京浜電気鉄道とは、現在の京浜急行のことです。既にこの頃には、川崎駅から川崎大師まで鉄道が開通していました。現在の京浜急行大師線です。

東海道線が開通して川崎駅が設置されてから、東京と川崎大師の距離は格段に縮まりました。しかし、そうは言っても、川崎駅から2キロほどは歩かなければなりません。ここに至り、鉄道敷設の機運が高まります。

ついに、明治32年(1899)1月に、多摩川縁の六郷橋駅と大師駅を結ぶ大師電気鉄道が開業します。大師駅とは現在の川崎大師駅のことですが、この大師電気鉄道こそが京浜急行電鉄のはじまりでした。そもそも、京浜急行は川崎大師参詣者のために敷設された鉄道にはじまるというわけです。なお、4月に大師電気鉄道は京浜電気鉄道に社名が変更されます。

明治35年(1902)には、川崎駅への乗り入れがはじまります。さらに、川崎大師は東京との距離を縮めることになりました。そして、後には品川まで線路が延長され、現在の京浜急行の原形が出来上がります。

大正14年の開帳に話を戻します。
この頃は、品川から川崎経由で大師駅まで鉄道が延びていました。並行して走る東海道線もありましたが、川崎大師としては川崎大師までの路線を持つ京浜電気鉄道に期待するところは大きかったでしょう。そのため、開帳ポスター掲示への協力を大いに期待したわけです。京浜電気鉄道側にしても、参詣者が乗車してくれれば、それだけ収入はアップします。まさに、持ちつ持たれつなのでした。

さて、開帳に先だって、川崎大師では供養塔を準備していますが、その用材を川崎から運び込みます。牛3頭で牽いたそうですが、その行列に講社のメンバーも参加しています。

もちろん、川崎大師側からも人が出ますが、講社が行列に彩りを添えました。豆撒講、念仏講、川崎護摩講、内陣畳講のメンバーが行列に参加し、たいへんな賑わいになりました。その行列を見物する人たちの数も半端ではなかったようです。開帳に先立っての大デモンストレーションなのでした。

豆撒講は節分の時に豆を撒く人たち、念仏講は念仏を唱える人たちで結成された講です。護摩講は川崎の町の人たちで結成された講ですが、護摩木を寄進するコンセプトで結成された講社でしょうか。内陣畳講とは、本尊たる厄除け大師を安置してある部分(内陣)の畳を寄進するコンセプトで結成された講社でしょう。

江戸出開帳の時は、江戸の大師講が厄除け大師の江戸入り道中の行列人数に加わっていたわけですが、居開帳の時も、江戸の大師講ではなかったようですが、講社が同じような役割を担っていたのでした。

2008年2月12日

開帳前年の大正13年(1924)8月18日、川崎大師で開帳準備会が開催されました。そして、以下の条項が決議されます。

まず、第1条目では、開帳期間を大正14年4月11日から5月10日までの30日間と定めています。第2条目では、檀家総代を招集して、開帳実施を発表するとしています。お寺の行事に檀家の力が必要なことは言うまでもありませんが、尽力を期待したのは檀家だけではありません。豆まき世話人と講元・篤信にも大きな期待を寄せていました。

第3条目は、豆まき世話人についての条文です。開帳準備にあたり、地元の人々との連絡役を期待していたようです。居開帳となれば、門前の商店など地元の協力は不可欠ですが、その仲介役を勤めていたのが、豆まき世話人でした。豆まき世話人と言っても、節分のときだけに活躍するわけではなかったようです。

第4条目では、全ての講元のもとに推参し、尽力を依頼すると決議しています。講元とは、講社(中)を主催する代表世話人のことです。

川崎大師の大師講は、地元の川崎はもちろん、関東各地で結成されていましたが、何と言っても、東京の講社が最大勢力であったことは間違いありません。江戸の頃から、そうした事情は同じなのでした。

川崎大師が物心両面での協力を最も期待していたのは、東京各地で結成されていた大師講でした。ですから、東京の講元には、たいへん気を遣っているようです。

第5条目では、開帳の案内状を講元と篤信に発送すると決議しています。檀家、講元のほかに、篤信にも期待していたことが分かります。篤信とは、信仰が厚い人のことですが、檀家も講元(講員)にしても篤信であることに違いはありません。

つまり、川崎大師を厚く信仰している人のうち、檀家でも講社のメンバーでもない人を篤信と呼んで、尽力を期待したわけです。案内状発送後、川崎大師では講元や篤信のもとを個別に訪れて、協力を依頼して回ります。江戸出開帳の時にも、講元や篤信へのアプローチは盛んに行っていたはずです。

第5条目では、開帳ポスターの掲示の件です。駅や関東各地の町村役場に依頼して、貼ってもらおうというわけです。なかでも、最も期待していたのが京浜電気鉄道でした。

2008年2月 5日

残念ながら、川崎大師の場合、江戸の頃の大師講の動きは良くわかりません。ですが、明治以降の記録に大師講が登場しますので、その記録から江戸の様子を想像して見たいと思います。

明治に入っても、成田山などは江戸改め東京で出開帳を実施しています。しかし、川崎大師は明治に入ると、東京での出開帳は中止してしまいます。

東京で出開帳しなくても、東京から川崎大師への人の流れは確実なものになっているという認識があったのかも知れませんが、最大の理由は交通事情の改善です。

明治5年(1872)に、新橋~横浜間に鉄道が開通します。川崎駅も設置され、川崎大師と東京との距離は格段に縮まりました。川崎大師駅が設置されるのは後年のことですが、川崎まで鉄道で行けるようになった事実は、たいへん大きかったことは言うまでもありません。

江戸から川崎大師までは20キロぐらいありました。江戸の人は健脚で、旅に出ると、1日40キロ歩いたと言われます。しかし、それにしても日帰りで往復するとなると、大変です。朝早く、江戸を出立しなければなりませんでした。

そのため、ご本尊が江戸まで出開帳にやって来るということになるわけですが、鉄道の開通により、川崎駅から川崎大師まで歩けば済むことになりました。距離にして僅か2キロほどですから、川崎駅からは往復で1時間で済みます。

ですから、川崎大師は出開帳は中止して、居開帳一本になるのですが、居開帳であっても、開帳にあたっては講社の力が必要な事情は同じでした。明治9年(1876)に、川崎大師は開帳をおこないますが、その折には東京講社といろいろ相談しています。残念ながら、その中身までは分かりませんが、開帳情報の周知徹底と、物心両面での協力依頼であることは間違いないでしょう。

明治37年(1904)は日露戦争が起きた年ですが、川崎大師では戦勝祈願と戦没者追悼会を兼ねて居開帳をおこなっています。大師講の講員のうち、出征した軍人の数は数千人にも及んだと言います。出征した軍人のために、山主は開帳中、長期間にわたって息災祈願を行っています。

大正14年(1925)にも、川崎大師は居開帳をおこなっているのですが、その時の裏舞台が見えてくるような資料が残されています。以下、その資料を読みながら、大師講に期待された役割などを見ていきたいと思います。

江戸時代、お寺参りは町人たちのレジャーでした。当時世界一の人口規模を誇った観光都市江戸では、お寺がありとあらゆる工夫を凝らし、現代の広告代理店さながらの参詣客の争奪戦が繰り広げられておりました。江戸研究家の安藤優一郎が語る、お寺にまつわる江戸の人間模様。
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安藤 優一郎 / 文
1965(昭和40)年千葉県生まれ。歴史家。江戸時代を専門とする。文学博士(早稲田大学)。NHK文化センターなどで生涯学習講座の講師を勤める。著書『徳川将軍家の演出力』『観光都市江戸の誕生』(新潮新書)では寺社の経営戦略を、新刊『江戸城・大奥の秘密』(文春新書)では、大奥とお寺の深いつながりを明らかにした。
→著者公式サイト
→著者ブログ「江戸探訪記」
→著者ブログ「大江戸グルメ日記」
加藤 円正 / イラスト
昭和51年愛媛県生まれ。人口100人ほどの瀬戸内に浮かぶ島にある、お寺の住職。イラストレーション、板目木版を中心に絵を描く。妖怪と時代劇とロックンロールを好む。2005年『怪』(角川書店)「第二回怪大賞」にて京極夏彦氏より妖怪版画で京極賞を受賞。
→イラストレーター公式サイト