天保10年(1839)6月より、川崎大師は約2ケ月間、江戸出開帳を行います。会場は、両国橋際の回向院です。厄除け大師は回向院での開帳が終わった後、江戸城の本丸御殿に入っています。
川崎大師にとっては、江戸での教線拡大の絶好の機会でした。江戸城に入って将軍様や大奥の女性たちに拝されることは、この上なく名誉なことであり、江戸の社会に与えるインパクトも絶大でした。
この時、川崎大師は厄除けお守り1000体、御洗米1000体などを献上しています。厄除け大師の名前を広めようという意図が込められていたことは言うまでもありません。
一方、江戸の大師講はどうだったのでしょうか。この時、大師講から奉納された物品としては次のようなものがありました。
御蔵前の講中からは、紺地や赤地の金襴水引などが奉納されています。御蔵前とは札差のことでしょう。札差たちによって結成された講社が奉納したわけです。
札差とは、将軍様の家来(旗本・御家人)に支給された俸禄米を換金する商人のことですが、貸金業で莫大な利益を上げた商人でもありました。一言で言うと、江戸でも指折りの富裕層でした。
札差と言っても、全員が大師講に入ったわけではないでしょう。成田講にしても、札差をメンバーとする講社はありました。ですが、いずれにせよ、川崎大師が江戸の富裕層を大師講として組織化していたことは間違いありません。出開帳時の奉納物によって、そのことが確かめられるのです。
芝大門講からは、紫縮緬の幕が寄進されています。芝大門とは、芝増上寺総門の門前に住む町人たちにより結成された講です。その町人全てではないでしょうが、浄土宗の大本山の門前町にまで、真言宗の川崎大師の講社のメンバーがいたということは確かなのです。
四日市の講社からは金の燈籠、市ケ谷の講社からは真鍮の燭台、大伝馬町の講社からは唐金の鰐口が奉納されています。四日市や大伝馬町は江戸の富裕層が集まる日本橋地域の町です。川崎大師も成田山と同じく、江戸の富裕層を基盤としていることが、改めて確認できます。