川崎大師は江戸っ子もそうですが、むしろお殿様たちからの信仰が厚かったようです。お殿様と言っても、将軍様の親類である田安徳川家や一橋徳川家などの徳川御三卿です。尾張・紀州・水戸家など徳川御三家とは別の家です。
徳川御三卿と呼ばれたお殿様たちは、将軍様に跡継ぎがいない場合の将軍候補と位置付けられていました。ですから、お殿様と言っても、実際は将軍の家族のようなものでしたが、その田安徳川家や一橋徳川家から川崎大師は厚い信仰を受けていたのです。特に、8代将軍徳川吉宗の子供で田安徳川家初代当主となる田安宗武から厚い帰依を受け、本堂の再建費などが寄進されています。
そのゆかりは良く分かりません。しかし、将軍様ではないものの、徳川家からの厚い信仰を受けていたことは、後にはかり知れないメリットを生むことになります。特に、一橋徳川家の帰依を受けていたことが、川崎大師の運命を大きく変えるのです。
当時、一橋家の当主は一橋治済という人物でした。吉宗の孫にあたるのですが、その子供こそが、11代将軍徳川家斉です。50人以上の子供がいたことで知られる将軍です。10代将軍家治に跡継ぎがいなかったため、一橋家から将軍家に養子に入った人物なのでした。つまり、将軍様の実の父親から厚く信仰されていたことは、川崎大師にとって大変なメリットでした。
一橋治済が最初に川崎大師に参詣したのは、寛政3年(1791)2月19日のこと。5年後の8年(1796)10月27日には、家斉が参詣しています。おそらく、父親からの勧めだったのでしょう。家斉の参詣の目的は、24才前厄の祈願のためでした。
厄除け祈願というわけなのですが、前厄の時だけではありません。2年後の10年(1798)9月21日、26才の後厄祈願の時にも、家斉は参詣しています。この事実は、厄除け大師としての川崎大師の知名度を一躍高めたことは間違いありません。
この時代、将軍様が参詣するという事実だけで、そのお寺への参詣者はアップしました。現在でも、有名人が参詣すると参詣者はアップしますが、将軍様はNo1の有名人ですから、その効果は絶大でした。
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