2008年1月 1日

川崎大師は江戸っ子もそうですが、むしろお殿様たちからの信仰が厚かったようです。お殿様と言っても、将軍様の親類である田安徳川家一橋徳川家などの徳川御三卿です。尾張・紀州・水戸家など徳川御三家とは別の家です。

徳川御三卿と呼ばれたお殿様たちは、将軍様に跡継ぎがいない場合の将軍候補と位置付けられていました。ですから、お殿様と言っても、実際は将軍の家族のようなものでしたが、その田安徳川家や一橋徳川家から川崎大師は厚い信仰を受けていたのです。特に、8代将軍徳川吉宗の子供で田安徳川家初代当主となる田安宗武から厚い帰依を受け、本堂の再建費などが寄進されています。

そのゆかりは良く分かりません。しかし、将軍様ではないものの、徳川家からの厚い信仰を受けていたことは、後にはかり知れないメリットを生むことになります。特に、一橋徳川家の帰依を受けていたことが、川崎大師の運命を大きく変えるのです。

当時、一橋家の当主は一橋治済という人物でした。吉宗の孫にあたるのですが、その子供こそが、11代将軍徳川家斉です。50人以上の子供がいたことで知られる将軍です。10代将軍家治に跡継ぎがいなかったため、一橋家から将軍家に養子に入った人物なのでした。つまり、将軍様の実の父親から厚く信仰されていたことは、川崎大師にとって大変なメリットでした。

一橋治済が最初に川崎大師に参詣したのは、寛政3年(1791)2月19日のこと。5年後の8年(1796)10月27日には、家斉が参詣しています。おそらく、父親からの勧めだったのでしょう。家斉の参詣の目的は、24才前厄の祈願のためでした。

厄除け祈願というわけなのですが、前厄の時だけではありません。2年後の10年(1798)9月21日、26才の後厄祈願の時にも、家斉は参詣しています。この事実は、厄除け大師としての川崎大師の知名度を一躍高めたことは間違いありません。

この時代、将軍様が参詣するという事実だけで、そのお寺への参詣者はアップしました。現在でも、有名人が参詣すると参詣者はアップしますが、将軍様はNo1の有名人ですから、その効果は絶大でした。

まさに、葵ブランド様々といったところですが、さらに15年後に決定的な出来事が起きるのです。

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江戸時代、お寺参りは町人たちのレジャーでした。当時世界一の人口規模を誇った観光都市江戸では、お寺がありとあらゆる工夫を凝らし、現代の広告代理店さながらの参詣客の争奪戦が繰り広げられておりました。江戸研究家の安藤優一郎が語る、お寺にまつわる江戸の人間模様。
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安藤 優一郎 / 文
1965(昭和40)年千葉県生まれ。歴史家。江戸時代を専門とする。文学博士(早稲田大学)。NHK文化センターなどで生涯学習講座の講師を勤める。著書『徳川将軍家の演出力』『観光都市江戸の誕生』(新潮新書)では寺社の経営戦略を、新刊『江戸城・大奥の秘密』(文春新書)では、大奥とお寺の深いつながりを明らかにした。
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加藤 円正 / イラスト
昭和51年愛媛県生まれ。人口100人ほどの瀬戸内に浮かぶ島にある、お寺の住職。イラストレーション、板目木版を中心に絵を描く。妖怪と時代劇とロックンロールを好む。2005年『怪』(角川書店)「第二回怪大賞」にて京極夏彦氏より妖怪版画で京極賞を受賞。
→イラストレーター公式サイト