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2008年1月 アーカイブ

2008年1月29日

天保10年(1839)6月より、川崎大師は約2ケ月間、江戸出開帳を行います。会場は、両国橋際の回向院です。厄除け大師は回向院での開帳が終わった後、江戸城の本丸御殿に入っています。

川崎大師にとっては、江戸での教線拡大の絶好の機会でした。江戸城に入って将軍様や大奥の女性たちに拝されることは、この上なく名誉なことであり、江戸の社会に与えるインパクトも絶大でした。

この時、川崎大師は厄除けお守り1000体、御洗米1000体などを献上しています。厄除け大師の名前を広めようという意図が込められていたことは言うまでもありません。

一方、江戸の大師講はどうだったのでしょうか。この時、大師講から奉納された物品としては次のようなものがありました。

御蔵前の講中からは、紺地や赤地の金襴水引などが奉納されています。御蔵前とは札差のことでしょう。札差たちによって結成された講社が奉納したわけです。

札差とは、将軍様の家来(旗本・御家人)に支給された俸禄米を換金する商人のことですが、貸金業で莫大な利益を上げた商人でもありました。一言で言うと、江戸でも指折りの富裕層でした。

札差と言っても、全員が大師講に入ったわけではないでしょう。成田講にしても、札差をメンバーとする講社はありました。ですが、いずれにせよ、川崎大師が江戸の富裕層を大師講として組織化していたことは間違いありません。出開帳時の奉納物によって、そのことが確かめられるのです。

芝大門講からは、紫縮緬の幕が寄進されています。芝大門とは、芝増上寺総門の門前に住む町人たちにより結成された講です。その町人全てではないでしょうが、浄土宗の大本山の門前町にまで、真言宗の川崎大師の講社のメンバーがいたということは確かなのです。

四日市の講社からは金の燈籠、市ケ谷の講社からは真鍮の燭台、大伝馬町の講社からは唐金の鰐口が奉納されています。四日市や大伝馬町は江戸の富裕層が集まる日本橋地域の町です。川崎大師も成田山と同じく、江戸の富裕層を基盤としていることが、改めて確認できます。

2008年1月22日
第五話「大師講の基盤」[2] (2).jpg

将軍の厄除けの身代りになったという評判が大きなインセンティブとなって、川崎大師には江戸から参詣者が押し寄せるようになりました。川崎大師にとっては、この人の流れを確実なものにするためにも、江戸での教線拡張に力を入れます。江戸での基盤を強固なものにしようとするのです。

厄除け大師が江戸に出向いて出開帳を行うのは、その一つです。御開帳を通じて、お賽銭などの臨時収入を得ることももちろんでしたが、成田山の事例でも見たように、江戸で大アピールすることで、江戸から川崎大師への参詣者の流れを作り出すというのが、その究極的な目的なのでした。

さて、成田山の場合は、成田講が江戸出開帳で大きな役割を果たしたわけですが、川崎大師の場合も同じです。川崎大師の場合は、大師講と呼びます。

大師講のメンバーには、川崎大師を檀家する人たちも含まれていたかもしれませんが、大半は違うでしょう。他寺を檀家とする人たちも、講という形でしたら、そのメンバーに加わることはできます。

成田山は成田講のパワーを結集することで、江戸に確固たる地盤を築きました。それが現代までつながっていくのですが、川崎大師の場合も、そうした事情はまったく同じなのです。

成田講ほど、大師講のメンバーについては良く分かっていませんが、断片的には分かりますので、以下見ていきたいと思います。

講社としては、下谷竜泉木魚講、御花講、淀橋常夜燈講などが古くからの講ということです。下谷竜泉木魚講とは、下谷竜泉寺門前に住む町人たちで結成されていた講のことでしょう。下谷竜泉寺門前と言うと、樋口一葉の生まれ育った町としても知られています。恐らく、下谷竜泉寺門前の町人たちが、川崎大師への信仰の証として木魚を寄進するというコンセプトのもと結成していた講なのでしょう。

御花講は、仏前に供える花を寄進するコンセプトのもと結成された講でしょうが、残念ながらメンバーが住む地域などは分かりません。

淀橋常夜燈講とは、常夜燈を寄進するコンセプトのもと結成された講ですが、淀橋とは甲州街道内藤新宿辺りの町のことです。現在で言うと、東京都庁の辺りですが、その町人たちがメンバーなのでしょう。

2008年1月15日

江戸のお坊さんたちは、自分の宗派だけでなく、他の宗派のお寺もよく回っているようです。情報収集という意図もあったのかもしれませんが、その一人に十方庵(大浄)敬順というお坊さんがいます。

この敬順という人物は、小日向(現東京都文京区)の廓念寺というお寺の住職でした。文化9年(1812)に隠居して、その後は悠々自適な生活を送ったのですが、江戸や近郊の観光名所を数多く訪れています。その中には、当然ながらお寺も含まれます。

その時の紀行文は『遊歴雑記』としてまとめられるのですが、敬順は川崎大師も参詣しています。どうも隠居する前だったようですが、その時の川崎大師の門前の様子は以下のようなものでした。

江ノ島に行く途中に参詣したようですが、その時の門前には2~3軒しか茶店はなかったと言います。ところが、山主が家斉の身代りになったという話が江戸に広まった後に参詣してみたところ、門前の光景は一変していました。

 敬順によれば、大きな茶店が10数軒立ち並んでいたそうです。それも、茶店というよりも、料理茶屋という感じの造りでした。店の規模は、間口でおおよそ察しが付くのですが、何と10~12、3間。20m前後というのですから、普通の茶店ではありません。

どうも、敬順は店内に入っているようです。風流な家作で、店内の庭には林や泉水が巧みに配置されていました。どう見ても、高級料理店という感じです。門前に立ち並ぶ店を見ると、そのお寺の参詣者の傾向が分かりますが、江戸の富裕層が川崎大師まで参詣していたことが想像できます。

将軍の身代りになったという評判の恩恵を受けていたのは、厄除け大師だけではありません。その門前町にも、莫大な経済効果を生んでいたのでした。高級料理店だけで10数軒というのですから、普通の茶店などは数知れずと言ったところでしょう。江戸から厄除け祈願を求めて、参詣者が大挙押し寄せていたことが分かります。

もちろん、川崎近郊からの参詣者も多かったでしょう。ですが、将軍様の身代りという評判で名を上げていたわけですから、その参詣者の大半は将軍様のお膝元・江戸からということになるでしょう。もしかしたら、川崎大師も、この評判を積極的に江戸の町に流していたのかも知れません。

2008年1月 8日
第3話「将軍の身代り」.jpg

将軍様のお陰で、江戸に住む武士や町人の間での川崎大師の知名度はアップしたのですが、運命が変わったのは、この後に起きた出来事でした。

家斉は25才本厄の前後年に参詣したわけですが、次の本厄は42才ということになります。この前厄の年と後厄の年に参詣しているのですが、前厄の年とは文化10年(1813)のことです。家斉41才の時でした。

家斉が参詣したのは、この年の9月28日のことです。ところが、その直前に、34世山主の隆円上人が急死してしまいます。このことが表沙汰になれば、家斉の参詣が中止になるのは必至でしょう。だから、その死を伏せて、川崎大師は家斉をお迎えしました。

江戸城から川崎大師となると、ゆうに10キロぐらいはあるのですが、家斉は日帰りで帰城しています。将軍に限らず、お殿様たちが参詣する時も日帰りだったようです。日帰りの旅行には、ちょうど適当な距離にあったのですが、宿泊するとなると何と言っても警備が大変です。ですから、朝早く城を出て、お昼を川崎大師で済ませ、夕方に帰城するというタイムスケジュールになります。

さて、家斉はその日のうちに城に戻ったのですが、参詣から帰った後、その事実を知ります。どういう経緯が良く分からないのですが、お側の者から、自分の身代りで隆円上人は死去したと、家斉は伝えられたそうです。

家斉は大変感動し、以後、川崎大師に対して強力なバックアップを展開します。寺領の寄進、境内の堂社整備、境内地の拡張などの援助を、川崎大師は引き出すことができたわけです。そして、将軍の身代りとなったという話が江戸の町に広まると、江戸から大挙、参詣者が押し寄せるようになります。

山主の急死という事実を伏せたこと、それを知りながら家斉に参詣してもらったということが幕府に知れれば、普通に考えると、何らかの処罰が下される危険性は当然あったでしょう。ところが、川崎大師は災い転じて福となしたのでした。

2008年1月 1日

川崎大師は江戸っ子もそうですが、むしろお殿様たちからの信仰が厚かったようです。お殿様と言っても、将軍様の親類である田安徳川家一橋徳川家などの徳川御三卿です。尾張・紀州・水戸家など徳川御三家とは別の家です。

徳川御三卿と呼ばれたお殿様たちは、将軍様に跡継ぎがいない場合の将軍候補と位置付けられていました。ですから、お殿様と言っても、実際は将軍の家族のようなものでしたが、その田安徳川家や一橋徳川家から川崎大師は厚い信仰を受けていたのです。特に、8代将軍徳川吉宗の子供で田安徳川家初代当主となる田安宗武から厚い帰依を受け、本堂の再建費などが寄進されています。

そのゆかりは良く分かりません。しかし、将軍様ではないものの、徳川家からの厚い信仰を受けていたことは、後にはかり知れないメリットを生むことになります。特に、一橋徳川家の帰依を受けていたことが、川崎大師の運命を大きく変えるのです。

当時、一橋家の当主は一橋治済という人物でした。吉宗の孫にあたるのですが、その子供こそが、11代将軍徳川家斉です。50人以上の子供がいたことで知られる将軍です。10代将軍家治に跡継ぎがいなかったため、一橋家から将軍家に養子に入った人物なのでした。つまり、将軍様の実の父親から厚く信仰されていたことは、川崎大師にとって大変なメリットでした。

一橋治済が最初に川崎大師に参詣したのは、寛政3年(1791)2月19日のこと。5年後の8年(1796)10月27日には、家斉が参詣しています。おそらく、父親からの勧めだったのでしょう。家斉の参詣の目的は、24才前厄の祈願のためでした。

厄除け祈願というわけなのですが、前厄の時だけではありません。2年後の10年(1798)9月21日、26才の後厄祈願の時にも、家斉は参詣しています。この事実は、厄除け大師としての川崎大師の知名度を一躍高めたことは間違いありません。

この時代、将軍様が参詣するという事実だけで、そのお寺への参詣者はアップしました。現在でも、有名人が参詣すると参詣者はアップしますが、将軍様はNo1の有名人ですから、その効果は絶大でした。

まさに、葵ブランド様々といったところですが、さらに15年後に決定的な出来事が起きるのです。

江戸時代、お寺参りは町人たちのレジャーでした。当時世界一の人口規模を誇った観光都市江戸では、お寺がありとあらゆる工夫を凝らし、現代の広告代理店さながらの参詣客の争奪戦が繰り広げられておりました。江戸研究家の安藤優一郎が語る、お寺にまつわる江戸の人間模様。
→ブログに登場する江戸名所の地図
安藤 優一郎 / 文
1965(昭和40)年千葉県生まれ。歴史家。江戸時代を専門とする。文学博士(早稲田大学)。NHK文化センターなどで生涯学習講座の講師を勤める。著書『徳川将軍家の演出力』『観光都市江戸の誕生』(新潮新書)では寺社の経営戦略を、新刊『江戸城・大奥の秘密』(文春新書)では、大奥とお寺の深いつながりを明らかにした。
→著者公式サイト
→著者ブログ「江戸探訪記」
→著者ブログ「大江戸グルメ日記」
加藤 円正 / イラスト
昭和51年愛媛県生まれ。人口100人ほどの瀬戸内に浮かぶ島にある、お寺の住職。イラストレーション、板目木版を中心に絵を描く。妖怪と時代劇とロックンロールを好む。2005年『怪』(角川書店)「第二回怪大賞」にて京極夏彦氏より妖怪版画で京極賞を受賞。
→イラストレーター公式サイト