川崎大師と言えば、成田山と共に、毎年初詣の人出ベスト3に名前を連ねています。しかし、現在のように、吏京(江戸)から参詣者が大挙押し寄せるようになったのは、実はここ200年ほどのことに過ぎません。将軍と言うと、11代将軍徳川家斉の時でした。19世紀に入ってからのことなのです。
川崎大師は、多摩川の河口近くの大師河原に鎮座しているお大師様です。大治2年(1127)に、平間兼乗という武士の出の漁師が、大師河原で弘法大師像を引き揚げました。翌3年(1128)に、兼乗は小堂を建てて本堂とします。これが川崎大師のはじまりでした。
兼乗が多摩川に網を投じたのには、訳がありました。この年、兼乗は42才の厄年に当たっていたのです。厄除けを祈願していたわけですが、そんなある日の夜、夢枕に立ったお告げに従って網を投じたところ、弘法大師像を引き揚げたのです。厄除け大師・川崎大師の誕生でした。
川崎大師の寺号は、平間寺(へいげんじ)と言います。言うまでもなく、兼乗の苗字を取ったのでした。
川崎大師という言葉は、江戸の頃は一般的ではなかったようです。五街道のうち東海道第2番目の宿場・川崎宿の近くにありましたが、大師河原平原寺というのが通称でした。川崎大師という言葉が登場してくるのが、いつの頃なのか、はっきりしたことは分からないのですが、少なくとも、江戸時代には川崎大師という言葉はなかったようです。
「江戸名所図会」という江戸の観光名所を紹介したガイドブックがあります。江戸だけでなく、江戸近郊の観光名所も網羅されているガイドですが、川崎大師は「大師河原大師堂」という名前で紹介されています。ですが、この章では川崎大師という言葉で話を進めていきたいと思います。
厄除け大師として、地域の厚い信仰を受けていた川崎大師ですが、18世紀までは、さほど強固な基盤が江戸の町にあったわけではありませんでした。もちろん、江戸に住む武士や町人が数多く参詣していたのですが、19世紀以降の参詣状況ほどではありませんでした。ですが、19世紀に入ると、ある出来事を契機として状況が一変するのです。