2007年12月 4日

一口に成田講と言ってもさまざまでしたが、成田山に参詣することで、その繋がりが維持強化されていく事情は共通してあてはまります。

各成田講では、講員が各々お金を出し合い、積み立てていました。信仰の証としての奉納金となっていくわけですが、それだけが使途ではありません。成田山への参詣旅行、つまり成田詣での積立金にもなっていたのです。

必ずしも、メンバー全員が揃って、成田山まで御参りにいったわけではありません。大半の講中は、順番でお参りしています。数人から数10人ずつ連れ立って、成田に向かいました。もちろん、手ぶらではありません。成田山に納める奉納金を持参していくわけです。

さて、大体1泊2日で成田に到着して、その門前の旅籠屋に宿泊するのですが、泊まる宿屋は決まっていました。江戸の成田講に限らず、関東各地に点在する成田講は、成田山門前の旅籠屋と各々契約していたのです。定宿なのでした。

時代劇などで旅籠屋のシーンが出てくると、○○講という木製の看板が掛けられていることがあります。○○講の人たちは、その看板を目印に宿泊しました。江戸の頃から、協定旅館制度があったわけです。講にはいろいろあったわけですが、成田講の場合も同じです。成田山門前の旅籠屋の中に入ると、前回取り上げてきた○○講という看板が掛けられていたはずです。そのメンバーたちが泊まるのです。

泰平の世とはいえ、旅では危険が付き物でした。どうしても、宿の選択には気を遣うわけですが、そうした要望に応えたシステムなのです。この旅籠屋に泊まれば、安心して宿泊や休憩ができるということで旅人には好評でしたが、その裏では、宿泊者の熾烈な獲得合戦が繰り広げられていました。お寺の周りでも、参詣者の誘致合戦が繰り広げられていたわけです。

成田山の門前には32軒の旅籠屋がありましたが、昼間は一膳飯屋を営んでいました。昼間は食堂、夜は旅籠屋として活用されていたのです。

現在も、成田山の門前にはお食事所をはじめ、土産物屋など様々な店が軒を並べていますが、江戸時代は旅籠屋の数がダントツで、居酒屋と菓子屋の数が次いで多かったそうです。甘いものとお酒が人気があるのは、いつの時代も同じということなのでしょう。

湯屋、つまりお風呂屋も3軒ありました。旅籠屋にも風呂はありましたが、多人数で宿泊するため、どうしてもお風呂が不足するという事情があったようです。

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江戸時代、お寺参りは町人たちのレジャーでした。当時世界一の人口規模を誇った観光都市江戸では、お寺がありとあらゆる工夫を凝らし、現代の広告代理店さながらの参詣客の争奪戦が繰り広げられておりました。江戸研究家の安藤優一郎が語る、お寺にまつわる江戸の人間模様。
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安藤 優一郎 / 文
1965(昭和40)年千葉県生まれ。歴史家。江戸時代を専門とする。文学博士(早稲田大学)。NHK文化センターなどで生涯学習講座の講師を勤める。著書『徳川将軍家の演出力』『観光都市江戸の誕生』(新潮新書)では寺社の経営戦略を、新刊『江戸城・大奥の秘密』(文春新書)では、大奥とお寺の深いつながりを明らかにした。
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→著者ブログ「江戸探訪記」
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加藤 円正 / イラスト
昭和51年愛媛県生まれ。人口100人ほどの瀬戸内に浮かぶ島にある、お寺の住職。イラストレーション、板目木版を中心に絵を描く。妖怪と時代劇とロックンロールを好む。2005年『怪』(角川書店)「第二回怪大賞」にて京極夏彦氏より妖怪版画で京極賞を受賞。
→イラストレーター公式サイト