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2007年12月 アーカイブ

2007年12月25日

川崎大師と言えば、成田山と共に、毎年初詣の人出ベスト3に名前を連ねています。しかし、現在のように、吏京(江戸)から参詣者が大挙押し寄せるようになったのは、実はここ200年ほどのことに過ぎません。将軍と言うと、11代将軍徳川家斉の時でした。19世紀に入ってからのことなのです。

川崎大師は、多摩川の河口近くの大師河原に鎮座しているお大師様です。大治2年(1127)に、平間兼乗という武士の出の漁師が、大師河原で弘法大師像を引き揚げました。翌3年(1128)に、兼乗は小堂を建てて本堂とします。これが川崎大師のはじまりでした。

兼乗が多摩川に網を投じたのには、訳がありました。この年、兼乗は42才の厄年に当たっていたのです。厄除けを祈願していたわけですが、そんなある日の夜、夢枕に立ったお告げに従って網を投じたところ、弘法大師像を引き揚げたのです。厄除け大師・川崎大師の誕生でした。

川崎大師の寺号は、平間寺(へいげんじ)と言います。言うまでもなく、兼乗の苗字を取ったのでした。

川崎大師という言葉は、江戸の頃は一般的ではなかったようです。五街道のうち東海道第2番目の宿場・川崎宿の近くにありましたが、大師河原平原寺というのが通称でした。川崎大師という言葉が登場してくるのが、いつの頃なのか、はっきりしたことは分からないのですが、少なくとも、江戸時代には川崎大師という言葉はなかったようです。

江戸名所図会」という江戸の観光名所を紹介したガイドブックがあります。江戸だけでなく、江戸近郊の観光名所も網羅されているガイドですが、川崎大師は「大師河原大師堂」という名前で紹介されています。ですが、この章では川崎大師という言葉で話を進めていきたいと思います。

厄除け大師として、地域の厚い信仰を受けていた川崎大師ですが、18世紀までは、さほど強固な基盤が江戸の町にあったわけではありませんでした。もちろん、江戸に住む武士や町人が数多く参詣していたのですが、19世紀以降の参詣状況ほどではありませんでした。ですが、19世紀に入ると、ある出来事を契機として状況が一変するのです。

2007年12月18日

成田山に参詣したのは、江戸の成田講だけではありません。檀家はもちろん、一般の参詣者もいます。しかし、今まで見てきましたように、成田講は成田山にとって大切な存在でした。特に、経済力ある江戸の成田講がそうでした。

お寺にとって、檀家の記録である過去帳はこの上なく大事な記録です。ですが、こうした講中のデータが記録されている帳面も、成田山のように、江戸っ子の浄財に大きく依存するお寺にとっては、この上なく貴重な情報なのです。

だから、こうした情報が記録されている帳面は大切に保管されました。現在まで残った結果、今まで述べてきたようなことが分かるのです。もし、その記録を失ってしまうと、江戸での足場を失い、戦略も立てられず、経営には大打撃ということになるでしょう。

お寺はこうした個人情報を元に、経営戦略を立てていました。その戦略の舞台は江戸とは限りませんが、成田山の場合は江戸が最重点地区であったことは間違いないでしょう。

檀家に経営基盤を置いていたお寺はたくさんあるわけですが、寛永寺・増上寺など将軍様を檀家としているようなお寺でしたら、それだけで良かったのかも知れません。経済力ある檀家を抱えていれば良いわけですが、そういうお寺はごく一部に過ぎないでしょう。

そのため、経営基盤を強化するための努力を、江戸時代のお寺は重ねています。いろいろな手法がありますが、講を組織化して、自分のお寺の境内まで江戸っ子を誘致する手法は、その代表的なものでした。

つまり、成田講という基盤を江戸で作り上げることで、成田山に江戸の富を誘導していくことが可能となるのです。こうして、成田山は地方の一寺院から全国区のお寺に飛躍していきました。成田山の現在の威容は、元をたどれば江戸に遡れると言っても決して言い過ぎではないでしょう。

となると、成田講との結び付きを維持強化するための江戸出開帳を、それのみの収支で評価するのは一面的ということになります。繰り返しになりますが、檀家や成田講への入会という形で成田山まで誘致できれば、目的は達せられたと評価することも可能でしょう。

そうした構図は、成田山だけにあてはまるものではありません。これから見ていく江戸近郊の巨大なお寺にも、共通してあてはまることなのでした。

2007年12月11日
十二話「精進落とし」決定.jpg

成田山で精進料理を食した後、成田講の面々は境内や門前でお札やお土産を買い求めます。成田山の境内を見てみると、さすがに江戸の浅草寺ほどではありませんが、飲食店はもちろん、様々な店が誘客合戦を繰り広げていました

土産物屋は定番ですが、現在の成田の土産物と言えば羊羹と漬物でしょう。ですが、江戸時代後期の事例で見ますと、苺おこしが有名だったと言います。

なかでも、見世物小屋は人気がありました。その見世物を見ると、動物の見世物、からくり人形、軽業、曲馬など多種多様でした。曲馬というのは、馬に乗って曲芸を見せるパフォーマンスです。

成田山も、江戸の芸能文化の発信地に他なりません。香具師の名前を見ますと、ほとんどが両国や浅草など江戸の香具師でした。地方興行していたわけです。まさしく、浅草寺などの空間が移転していたような光景が展開されていました。

さて、成田山を後にした成田講の面々や一般の参詣者は、江戸への帰途に就きます。いわば、往路と同じく復路でも船橋宿で宿泊するのがお決まりのコースでした。気が抜けたのかどうかは分かりませんが、船橋宿では精進落としと称して、宴会になってしまうのが実態でした。

精進明けとも言いますが、精進料理を食した日の夜には精進落とししてしまうわけです。むしろ、これが楽しみだった江戸っ子もかなりいたようです。

そのため、船橋宿は歓楽街として発展することになりました。ですが、このことは成田詣だけにあてはまることではありません。大山詣を終えた後に、藤沢宿などで精進落としと称して、どんちゃん騒ぎになってしまうことは良く知られています。通過儀礼のようなものでした。

しかし、いずれにしても、ここにも成田山の御利益が確認できるのでした。

2007年12月11日

江戸の頃の話に戻ります。

成田講の面々に限らず、檀家にも精進料理は出したでしょうが、成田講に出す精進料理には、たいへん気を遣っています。檀家との関係は、ずっと続くわけですが、成田講の場合は必ずしもそうではありません。檀家と講の違いです。そのため、メニューには細心の注意を払ったわけです。

成田山には、料理の献立記録が残っています。一口に精進料理と言っても、季節そして奉納金額で、かなりの違いがありました。食材や料理数に格差があったわけです。つまり、奉納金額で、メニューはランク付けされていました

文政9年(1826)に成田山に御参りに来た本所堅川御手長講の献立を見てみます。隅田川から見て東側にあたる本所堅川地域のメンバーで構成されていた成田講です。御手長講は、以前取り上げました。護摩修行中に、講中全員が供物を順次手送りにして奉献し、それを各自いただくのです。

記録には、煮染め、吸い物、硯蓋、大鉢、大平、丼、大鉢、吸い物、大鉢、と書かれています。最初の吸い物で見ると、千本しめじ、白玉、かゐわり(貝割菜)うどが具でした。最後の方の吸い物は、水前寺のりとまつたけです。最後の大鉢には、葡萄と梨が盛られていました。

そのほか、メニューは奉納金額によってバラエティーに富んでいましたが、どんな食材が使われていたのでしょう。

順不同で列挙しますと、しめじ・きくらげ・まつたけ・しいたけ。これは地衣類ですが、野菜では、ゴボウ・しょうが・長イモ・れんこん・竹の子・ワラビなどがあります。

実に多彩な食材ですが、当時、これだけの食材を取り寄せるのは大変なことだったと言われています。それだけ、成田講には気を遣っていたのです。

2007年12月 4日
十話「坊入り」.jpg

成田講の面々は、成田山に到着した夜は旅籠屋に宿泊します。そして翌日の早朝、成田山に参詣します。護摩を焚いてもらい、そのお札などをいただくわけです。

一般の参詣者は、その後、境内や門前町を回りながら、土産物などを買い求めるのでしょう。ですが、成田講の面々などは本坊に入っていきます。そこで、成田山から精進料理やお神酒をいただくのです。これを、坊入りと呼びます。このような行事は現在も行われています。

精進料理とは、精進物のみを用いた料理のことですが、江戸時代の頃のメニューをみる前に、現代の坊入りの様子から見てみましょう。

護摩の修行を受けた参詣者は、本坊の光輪閣に向かいます。非常に立派な建物ですが、そこで精進料理が出されます。ところが、不思議なことに、成田山の坊入りでは御飯が出てこないそうです。ただし、お神酒は出ます。

御飯が出てこない理由ですが、本坊でお腹が一杯になると、参道のお食事所が困るのではという配慮が働いているということです。成田では、お昼御飯のことを中食と呼ぶそうですが、中食は参道のお食事所でという配慮なのです。お寺と門前のお店は、共存共栄の関係にありました。だから、御飯は門前町のお店で食べて欲しいというわけなのでしょう。

料理のなかでも、大浦ゴボウは珍品だそうです。大浦ゴボウは、他の地域では入手できません。千葉県八日市場市大浦地区の10軒の農家だけで栽培されているゴボウです。八日市場市の天然記念物に指定されているほどです。

このゴボウは、輪切りの直径が約20cmもあります。成田山以外のお寺では食べれないものでした。こういう所にも、成田山の参詣者への細かい配慮が見つけられます。

2007年12月 4日

一口に成田講と言ってもさまざまでしたが、成田山に参詣することで、その繋がりが維持強化されていく事情は共通してあてはまります。

各成田講では、講員が各々お金を出し合い、積み立てていました。信仰の証としての奉納金となっていくわけですが、それだけが使途ではありません。成田山への参詣旅行、つまり成田詣での積立金にもなっていたのです。

必ずしも、メンバー全員が揃って、成田山まで御参りにいったわけではありません。大半の講中は、順番でお参りしています。数人から数10人ずつ連れ立って、成田に向かいました。もちろん、手ぶらではありません。成田山に納める奉納金を持参していくわけです。

さて、大体1泊2日で成田に到着して、その門前の旅籠屋に宿泊するのですが、泊まる宿屋は決まっていました。江戸の成田講に限らず、関東各地に点在する成田講は、成田山門前の旅籠屋と各々契約していたのです。定宿なのでした。

時代劇などで旅籠屋のシーンが出てくると、○○講という木製の看板が掛けられていることがあります。○○講の人たちは、その看板を目印に宿泊しました。江戸の頃から、協定旅館制度があったわけです。講にはいろいろあったわけですが、成田講の場合も同じです。成田山門前の旅籠屋の中に入ると、前回取り上げてきた○○講という看板が掛けられていたはずです。そのメンバーたちが泊まるのです。

泰平の世とはいえ、旅では危険が付き物でした。どうしても、宿の選択には気を遣うわけですが、そうした要望に応えたシステムなのです。この旅籠屋に泊まれば、安心して宿泊や休憩ができるということで旅人には好評でしたが、その裏では、宿泊者の熾烈な獲得合戦が繰り広げられていました。お寺の周りでも、参詣者の誘致合戦が繰り広げられていたわけです。

成田山の門前には32軒の旅籠屋がありましたが、昼間は一膳飯屋を営んでいました。昼間は食堂、夜は旅籠屋として活用されていたのです。

現在も、成田山の門前にはお食事所をはじめ、土産物屋など様々な店が軒を並べていますが、江戸時代は旅籠屋の数がダントツで、居酒屋と菓子屋の数が次いで多かったそうです。甘いものとお酒が人気があるのは、いつの時代も同じということなのでしょう。

湯屋、つまりお風呂屋も3軒ありました。旅籠屋にも風呂はありましたが、多人数で宿泊するため、どうしてもお風呂が不足するという事情があったようです。

江戸時代、お寺参りは町人たちのレジャーでした。当時世界一の人口規模を誇った観光都市江戸では、お寺がありとあらゆる工夫を凝らし、現代の広告代理店さながらの参詣客の争奪戦が繰り広げられておりました。江戸研究家の安藤優一郎が語る、お寺にまつわる江戸の人間模様。
→ブログに登場する江戸名所の地図
安藤 優一郎 / 文
1965(昭和40)年千葉県生まれ。歴史家。江戸時代を専門とする。文学博士(早稲田大学)。NHK文化センターなどで生涯学習講座の講師を勤める。著書『徳川将軍家の演出力』『観光都市江戸の誕生』(新潮新書)では寺社の経営戦略を、新刊『江戸城・大奥の秘密』(文春新書)では、大奥とお寺の深いつながりを明らかにした。
→著者公式サイト
→著者ブログ「江戸探訪記」
→著者ブログ「大江戸グルメ日記」
加藤 円正 / イラスト
昭和51年愛媛県生まれ。人口100人ほどの瀬戸内に浮かぶ島にある、お寺の住職。イラストレーション、板目木版を中心に絵を描く。妖怪と時代劇とロックンロールを好む。2005年『怪』(角川書店)「第二回怪大賞」にて京極夏彦氏より妖怪版画で京極賞を受賞。
→イラストレーター公式サイト