一口に成田講と言ってもさまざまでしたが、成田山に参詣することで、その繋がりが維持強化されていく事情は共通してあてはまります。
各成田講では、講員が各々お金を出し合い、積み立てていました。信仰の証としての奉納金となっていくわけですが、それだけが使途ではありません。成田山への参詣旅行、つまり成田詣での積立金にもなっていたのです。
必ずしも、メンバー全員が揃って、成田山まで御参りにいったわけではありません。大半の講中は、順番でお参りしています。数人から数10人ずつ連れ立って、成田に向かいました。もちろん、手ぶらではありません。成田山に納める奉納金を持参していくわけです。
さて、大体1泊2日で成田に到着して、その門前の旅籠屋に宿泊するのですが、泊まる宿屋は決まっていました。江戸の成田講に限らず、関東各地に点在する成田講は、成田山門前の旅籠屋と各々契約していたのです。定宿なのでした。
時代劇などで旅籠屋のシーンが出てくると、○○講という木製の看板が掛けられていることがあります。○○講の人たちは、その看板を目印に宿泊しました。江戸の頃から、協定旅館制度があったわけです。講にはいろいろあったわけですが、成田講の場合も同じです。成田山門前の旅籠屋の中に入ると、前回取り上げてきた○○講という看板が掛けられていたはずです。そのメンバーたちが泊まるのです。
泰平の世とはいえ、旅では危険が付き物でした。どうしても、宿の選択には気を遣うわけですが、そうした要望に応えたシステムなのです。この旅籠屋に泊まれば、安心して宿泊や休憩ができるということで旅人には好評でしたが、その裏では、宿泊者の熾烈な獲得合戦が繰り広げられていました。お寺の周りでも、参詣者の誘致合戦が繰り広げられていたわけです。
成田山の門前には32軒の旅籠屋がありましたが、昼間は一膳飯屋を営んでいました。昼間は食堂、夜は旅籠屋として活用されていたのです。
現在も、成田山の門前にはお食事所をはじめ、土産物屋など様々な店が軒を並べていますが、江戸時代は旅籠屋の数がダントツで、居酒屋と菓子屋の数が次いで多かったそうです。甘いものとお酒が人気があるのは、いつの時代も同じということなのでしょう。
湯屋、つまりお風呂屋も3軒ありました。旅籠屋にも風呂はありましたが、多人数で宿泊するため、どうしてもお風呂が不足するという事情があったようです。