2007年11月27日

江戸の成田講のなかで、最もメンバーが多かったのは、浅草田町2丁目(現台東区浅草)の講中でした。150人いました。逆に最も少ないのは、深川常磐町(現江東区常盤)の講中で、わずか3人です。

町を単位とした講のほか、同業者で組織された講中もあります。「深川八幡前大工屋講中」とは、深川八幡つまり富岡八幡の門前に住んでいた大工屋がメンバーの講中です。深川八幡とは、深川永代寺内にあった八幡様のことです。

成田山が江戸出開帳する時の会場は、永代寺でした。開帳小屋が立てられたのは、深川八幡の社殿の近くです。この辺りの地域は、成田山と深い関係のある街なのでした。

「根津門前茶屋講」というのは、根津神社の門前に茶屋を構えている主人たちが結成した講です。当然のことながら、根津神社への参詣客で商売が成り立っていたはずの茶屋なのですが、成田不動への信仰も篤かったようです。成田山のパワーが、神社の門前にまで影響力を及ぼしていたことが分かる一例と言えるでしょう。

「日本橋ろ組提灯講」というのは、日本橋のいくつかの町で結成された町火消の「ろ組」のメンバーで構成されている講中です。提灯とは、町火消が自分の組の目印として掲げる提灯のことでしょう。成田山の山内を見ると、町火消が奉納したことが分かる石碑が数多く残されていることが一目瞭然です。

年代は違いますが、「新吉原御神酒講」という講中もあります。言うまでもなく、吉原の遊廓で結成された組織です。成田山は本堂(現釈迦堂)の建立にあたっては、吉原の講中から多額の奉納を受けています。

吉原は成田山の経営を大きく支えていました。だから、江戸出開帳の時、わざわざ寄り道して、吉原に立ち寄ったわけです。こうした巡行経路からも、成田山の基盤が透けて見えてきます。

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江戸時代、お寺参りは町人たちのレジャーでした。当時世界一の人口規模を誇った観光都市江戸では、お寺がありとあらゆる工夫を凝らし、現代の広告代理店さながらの参詣客の争奪戦が繰り広げられておりました。江戸研究家の安藤優一郎が語る、お寺にまつわる江戸の人間模様。
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安藤 優一郎 / 文
1965(昭和40)年千葉県生まれ。歴史家。江戸時代を専門とする。文学博士(早稲田大学)。NHK文化センターなどで生涯学習講座の講師を勤める。著書『徳川将軍家の演出力』『観光都市江戸の誕生』(新潮新書)では寺社の経営戦略を、新刊『江戸城・大奥の秘密』(文春新書)では、大奥とお寺の深いつながりを明らかにした。
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加藤 円正 / イラスト
昭和51年愛媛県生まれ。人口100人ほどの瀬戸内に浮かぶ島にある、お寺の住職。イラストレーション、板目木版を中心に絵を描く。妖怪と時代劇とロックンロールを好む。2005年『怪』(角川書店)「第二回怪大賞」にて京極夏彦氏より妖怪版画で京極賞を受賞。
→イラストレーター公式サイト