2007年11月20日

今から200年ほど前の文化11年(1814)に書かれた記録を読んでみることにします。「講中記」というタイトルが付けられています。

その記録によると、江戸市中だけで、成田講の講員の数は、ゆうに1万人を越していました。大半は町人ですが、これには家族の数は含まれていません。ですが、家族も成田講に含められるでしょうから、実数はその数倍ということになります。

江戸の町人人口は50万人ぐらいです。だから、成田講の占有率は10%前後ということなります。
もちろん、成田講に入っている江戸っ子で、大山講に入っている者もいたでしょう。高尾講のメンバーも、もしかしたら、大師講のメンバーもいたかもしれません。檀家ではなく、講中というまとまりでしたら、複数の講中に入っていても、別に問題はなかったはずです。

いろいろな宗派のお寺に参詣すること自体は、現在でも、ごく当り前の光景です。そうした事情は、江戸も同じでした。大半の江戸っ子はご利益があれば、その評判を聞き付ければ、宗派には関わりなく、どの宗派のお寺でも参詣していました。

ですから、数万人全てが、成田講のメンバーであったとしても、その信仰の度合いは自ら異なるでしょう。その点を踏まえた上での数字ではあるのですが、成田講が江戸で強い支持基盤を持っていたことは間違いありません。言い換えると、成田山に対する影響力・発言権も強いということになります。

成田講の数は、515講です。大半の講は、20人~40人ぐらいのメンバーでした。100人を超える講は数えるほどでした。町単位で結成されることが多かったようです。

江戸は俗に八百八町と言います。実際の町の数は1600ケ町以上ありましたが、どんな講があったのでしょうか。それを見ていくことで、成田山の支持基盤が浮き彫りになっていくのです。

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江戸時代、お寺参りは町人たちのレジャーでした。当時世界一の人口規模を誇った観光都市江戸では、お寺がありとあらゆる工夫を凝らし、現代の広告代理店さながらの参詣客の争奪戦が繰り広げられておりました。江戸研究家の安藤優一郎が語る、お寺にまつわる江戸の人間模様。
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安藤 優一郎 / 文
1965(昭和40)年千葉県生まれ。歴史家。江戸時代を専門とする。文学博士(早稲田大学)。NHK文化センターなどで生涯学習講座の講師を勤める。著書『徳川将軍家の演出力』『観光都市江戸の誕生』(新潮新書)では寺社の経営戦略を、新刊『江戸城・大奥の秘密』(文春新書)では、大奥とお寺の深いつながりを明らかにした。
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加藤 円正 / イラスト
昭和51年愛媛県生まれ。人口100人ほどの瀬戸内に浮かぶ島にある、お寺の住職。イラストレーション、板目木版を中心に絵を描く。妖怪と時代劇とロックンロールを好む。2005年『怪』(角川書店)「第二回怪大賞」にて京極夏彦氏より妖怪版画で京極賞を受賞。
→イラストレーター公式サイト