今から200年ほど前の文化11年(1814)に書かれた記録を読んでみることにします。「講中記」というタイトルが付けられています。
その記録によると、江戸市中だけで、成田講の講員の数は、ゆうに1万人を越していました。大半は町人ですが、これには家族の数は含まれていません。ですが、家族も成田講に含められるでしょうから、実数はその数倍ということになります。
江戸の町人人口は50万人ぐらいです。だから、成田講の占有率は10%前後ということなります。
もちろん、成田講に入っている江戸っ子で、大山講に入っている者もいたでしょう。高尾講のメンバーも、もしかしたら、大師講のメンバーもいたかもしれません。檀家ではなく、講中というまとまりでしたら、複数の講中に入っていても、別に問題はなかったはずです。
いろいろな宗派のお寺に参詣すること自体は、現在でも、ごく当り前の光景です。そうした事情は、江戸も同じでした。大半の江戸っ子はご利益があれば、その評判を聞き付ければ、宗派には関わりなく、どの宗派のお寺でも参詣していました。
ですから、数万人全てが、成田講のメンバーであったとしても、その信仰の度合いは自ら異なるでしょう。その点を踏まえた上での数字ではあるのですが、成田講が江戸で強い支持基盤を持っていたことは間違いありません。言い換えると、成田山に対する影響力・発言権も強いということになります。
成田講の数は、515講です。大半の講は、20人~40人ぐらいのメンバーでした。100人を超える講は数えるほどでした。町単位で結成されることが多かったようです。
江戸は俗に八百八町と言います。実際の町の数は1600ケ町以上ありましたが、どんな講があったのでしょうか。それを見ていくことで、成田山の支持基盤が浮き彫りになっていくのです。