お寺との関係で言うと、一番距離が近いのは檀家です。大半のお寺が、檀家との関係に経営基盤を置いていたことは、今も江戸も代わりはありません。しかし、檀家との関係だけにとどまっていたならば、今日の成田山はなかったでしょう。
成田山新勝寺の檀家の多くは、当然のことながら成田村と周辺の農民たちです。だから、出開帳の時に村を挙げて協力するのは、檀家である以上、何の不思議もありません。発言権もありますから、成田山としては、いろいろ気を遣っています。
しかし、成田山を支えたのは檀家だけではありません。成田講のメンバーたちにも大きく支えられていました。
成田講とは、成田不動を篤く信仰する講中のことです。不動明王を信仰しているので、不動講とも呼ばれていました。講員には檀家も含まれていたかもしれませんが、大半は檀家ではないでしょう。
江戸には、さまざまな講中がありました。川崎大師を信仰している人たちは大師講を構成しています。高尾山薬王院の場合は高尾講、大山不動の場合は大山講といった具合です。
講とは、お寺、神社、あるいは霊山、霊場に参拝し、奉加や寄進をおこなう集団組織のことです。信者からの動きで講が結成される場合もあったでしょうが、大半はお寺の側のアプローチで講は結成されます。成田講も例外ではありません。
もちろん、成田講は江戸だけにあったのではありません。地元の下総国をはじめ、関東各地にありました。出開帳をはじめとする成田山の布教活動の成果なのですが、江戸の成田講は経営面において、最大の支持基盤であったことは間違いありません。
成田山には、成田講についての史料が豊富にあります。その史料は、現在成田山霊光館に収蔵されているのですが、その史料から成田山を支えた成田講の姿を見ていきましょう。