江戸の成田講は、町単位だけでなく、商人や職人集団単位でも組織されていました。江戸のさまざまなネットワークが、成田山を支えていたことが分かります。
商人としては、魚屋や酒屋のほか、両替屋・札差・米屋・材木屋など、日本橋や深川地域の富裕な商人がメンバーの講中もあります。江戸の経済界を牛耳る大商人、つまり富裕層が成田講のメンバーになっていたという事実は、成田山にとって限りなく心強いことであったに違いありません。
慶応4年(1868)の「講中記」を見てみますと、「護摩木講」という名前が出てきます。これは何でしょう。
護摩を焚くには護摩木が必要ですが、その護摩木料を寄進しようという講中のことです。永代護摩木料として、50両奉納しています。1両は10万円前後ですので、500万円ぐらいということになります。護摩木用の山を成田山に寄進したという事例もあります。
「御手長講」という講中の名前も見えます。手長とは、宮中での饗宴で膳を取り次ぐことだそうです。成田山では、護摩修行中に講中全員が供物を順次手送りにして奉献します。護摩終了後は、手送りで下げます。この行為を、手長と呼びました。そのため、この行為を行う講中を「御手長講」と呼んだわけです。
「明治講」という講中の名前があります。講中の世話人は尾張屋清七と言います。江戸切絵図の版元として有名な尾張屋です。尾張屋が製作した切絵図は、俗に尾張屋版と呼ばれています。成田山への信仰が篤かったようです。
「明治講」という講中の世話人には、浮世絵師歌川国貞の名前があります。2代目の国貞(4代目の豊国)のことです。成田山は出版界にも深く根を下ろしていました。尾張屋にせよ、国貞にせよ、成田山のメディア戦略に大きな役割を果たしていたことがうかがわれます。
このような多様な講中が組織され、成田山の経営基盤を檀家と共に支えていたのです。こうした構図は別に成田山に限ることではありません。関東各地に点在する大きなお寺は、同じように、江戸に強力な基盤を持っていました。
そうした講中が、江戸出開帳の時には大活躍するのです。資金面を支えるだけでなく、成田不動の江戸入りのパレードにも参加して、その盛り上げに一役買いました。江戸の講中なくして、江戸出開帳は成り立たなかったのです。