2007年10月 2日

9月17日に、照誉は触頭(円福寺)の添状と一緒に、開帳の願書を寺社奉行脇坂安董に提出します。寺社奉行は大名が就任することになっていました(定員4~5名)。播磨国龍野(兵庫県)5万石のお殿様です。この月は、脇坂が月番だったのでしょう。

同じ奉行でも、町奉行には町奉行所という役宅があります。町奉行に任命されると、家族を連れてそこに住むことになっていました。遠山の金さんでお馴染みの北町奉行所は、現在の東京駅八重洲口の辺り。大岡越前で知られる南町奉行所は、有楽町駅の辺りにありました。しかし、寺社奉行所という役宅はなく、奉行に任命された大名の屋敷が奉行所になっていました。その家臣が寺社奉行所役人として、事務を処理したのです。

 照誉は担当の役人から、27日に出頭するよう命じられます。奉行所に出頭すると、お奉行様たちが居並ぶ前に進み出るよう命じられ、脇坂から願書は受理したと申し渡されました。

以後、奉行所内で願書が審議されましたが、10月10日、照誉に呼び出しが掛かります。出頭すると、担当の役人から大破したというが、該当する伽藍を書き上げるよう命じられます。翌11日に照誉が提出した書面を見ると、経堂と鐘楼堂の屋根(柿葺)が腐り、強い雨の時は雨漏りしてしまう。阿弥陀堂(土瓦葺)も雨漏りしている。祖師堂は雨漏りはしてないが、大破しているなどと書かれています。

この書面を受け取った担当役人は、場合によっては成田山まで人を遣って見分させると申し渡していますが、実際に役人を派遣する例はなかったようです。形だけの申し渡しでした。

11月6日、照誉は寺社奉行大久保忠真の屋敷に出頭し、開帳を許可されます。季節ごとに5件以内という枠がはめられていましたが、ちょうど枠も空いていたのでしょう。その裏では、開帳が認められるよう根回しに動いていた照誉の姿があったはずです。そこでは、担当役人への心付けは欠かせません。開帳で得られる収益に比べれば、安いものでした。許可が貰えるかどうかは、貫首としての評価にも係わります。もし許可されなければ責任問題にも発展してしまう恐れもありました。

屋敷から出てきた照誉は、関係各所にお礼回りをしていますが、触頭のお寺には、また礼金を納めています。江戸時代は、何かと礼金が欠かせない時代でしたが、礼金はこれで終わりというわけではなかったのです。

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江戸時代、お寺参りは町人たちのレジャーでした。当時世界一の人口規模を誇った観光都市江戸では、お寺がありとあらゆる工夫を凝らし、現代の広告代理店さながらの参詣客の争奪戦が繰り広げられておりました。江戸研究家の安藤優一郎が語る、お寺にまつわる江戸の人間模様。
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安藤 優一郎 / 文
1965(昭和40)年千葉県生まれ。歴史家。江戸時代を専門とする。文学博士(早稲田大学)。NHK文化センターなどで生涯学習講座の講師を勤める。著書『徳川将軍家の演出力』『観光都市江戸の誕生』(新潮新書)では寺社の経営戦略を、新刊『江戸城・大奥の秘密』(文春新書)では、大奥とお寺の深いつながりを明らかにした。
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加藤 円正 / イラスト
昭和51年愛媛県生まれ。人口100人ほどの瀬戸内に浮かぶ島にある、お寺の住職。イラストレーション、板目木版を中心に絵を描く。妖怪と時代劇とロックンロールを好む。2005年『怪』(角川書店)「第二回怪大賞」にて京極夏彦氏より妖怪版画で京極賞を受賞。
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