9月15日に、照誉は本所の弥勒寺(現墨田区)に向かいます。成田山は真言宗ですが、弥勒寺も真言宗です。
弥勒寺は、たいへん格式の高いお寺でした。江戸触頭を勤める4つのお寺のうちの1つです。江戸触頭というのは、何でしょう。
江戸幕府は、全国のお寺を宗派別に統制下に置いていました。この時代はお寺の数は数十万もあり、現代とケタが一つ違います。幕府にとって、お寺とお坊さんを支配するのは大変でしたが、その手段として、宗派別に江戸触頭のお寺を置き、その下に全国のお寺を付属させています。江戸時代は縦割り社会でしたが、お坊さんの社会も同じでした。
例えば、お寺に指令(お触れ)を出す場合、まず各宗派の江戸触頭に伝えます。そうすると、江戸触頭のお寺は管轄下のお寺に、その指令を伝えました。伝えたのは、本寺(本山)だけです。そして、本寺は末寺に伝えるという上位下達のシステムになっていました。
伝えると言っても、口頭ではなく文書です。コピーもない時代ですから、筆写したわけです。寺社奉行所から墨で書かれたお触れが届くと、触頭は管轄下にある本寺の数の分だけ筆写します。触頭からお触れの写しが届くと、本寺は末寺の間で回覧させるのです。回覧の順番も決まっていました。回覧の過程で、末寺は次々と筆写していきます。こうして、全国津々浦々のお寺まで、幕府の指令が届けられたのです。
逆に、お寺が寺社奉行に願書を提出する場合は、江戸触頭を通すことになっていました。その添状がなければ、願書自体、寺社奉行所に受け付けてもらえなかったのです。本寺はそのまま、江戸触頭に添状を出してくれるようお願いできましたが、末寺は本寺の添状がないとダメでした。成田山は本山でしたので、触頭の弥勒寺に添状を出してくれるよう、直に依頼しています。
ただし、実際に添状を出したのは同じ触頭の円福寺でした。愛宕下にありました。真言宗では、江戸触頭を勤める4つのお寺が交代で業務を取っていましたが、9月は円福寺の担当でした。これを月番と言います。弥勒寺はすぐに、円福寺に取り次いでくれました。
円福寺は即日、添状を出しましたが、無料というわけにはいきません。成田山は手数料のような形で、1両の半分ほどを納めています。取り次いでくれた弥勒寺にも同額を納めています。何かと物入りですが、必要経費のようなものでしょう。触頭のお寺にとっては、役得であり、貴重な収入源に他なりませんでした。