2007年10月 2日

9月15日に、照誉は本所の弥勒寺(現墨田区)に向かいます。成田山は真言宗ですが、弥勒寺も真言宗です。

弥勒寺は、たいへん格式の高いお寺でした。江戸触頭を勤める4つのお寺のうちの1つです。江戸触頭というのは、何でしょう。

江戸幕府は、全国のお寺を宗派別に統制下に置いていました。この時代はお寺の数は数十万もあり、現代とケタが一つ違います。幕府にとって、お寺とお坊さんを支配するのは大変でしたが、その手段として、宗派別に江戸触頭のお寺を置き、その下に全国のお寺を付属させています。江戸時代は縦割り社会でしたが、お坊さんの社会も同じでした。

例えば、お寺に指令(お触れ)を出す場合、まず各宗派の江戸触頭に伝えます。そうすると、江戸触頭のお寺は管轄下のお寺に、その指令を伝えました。伝えたのは、本寺(本山)だけです。そして、本寺は末寺に伝えるという上位下達のシステムになっていました。

伝えると言っても、口頭ではなく文書です。コピーもない時代ですから、筆写したわけです。寺社奉行所から墨で書かれたお触れが届くと、触頭は管轄下にある本寺の数の分だけ筆写します。触頭からお触れの写しが届くと、本寺は末寺の間で回覧させるのです。回覧の順番も決まっていました。回覧の過程で、末寺は次々と筆写していきます。こうして、全国津々浦々のお寺まで、幕府の指令が届けられたのです。

逆に、お寺が寺社奉行に願書を提出する場合は、江戸触頭を通すことになっていました。その添状がなければ、願書自体、寺社奉行所に受け付けてもらえなかったのです。本寺はそのまま、江戸触頭に添状を出してくれるようお願いできましたが、末寺は本寺の添状がないとダメでした。成田山は本山でしたので、触頭の弥勒寺に添状を出してくれるよう、直に依頼しています。

ただし、実際に添状を出したのは同じ触頭の円福寺でした。愛宕下にありました。真言宗では、江戸触頭を勤める4つのお寺が交代で業務を取っていましたが、9月は円福寺の担当でした。これを月番と言います。弥勒寺はすぐに、円福寺に取り次いでくれました。

円福寺は即日、添状を出しましたが、無料というわけにはいきません。成田山は手数料のような形で、1両の半分ほどを納めています。取り次いでくれた弥勒寺にも同額を納めています。何かと物入りですが、必要経費のようなものでしょう。触頭のお寺にとっては、役得であり、貴重な収入源に他なりませんでした。

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江戸時代、お寺参りは町人たちのレジャーでした。当時世界一の人口規模を誇った観光都市江戸では、お寺がありとあらゆる工夫を凝らし、現代の広告代理店さながらの参詣客の争奪戦が繰り広げられておりました。江戸研究家の安藤優一郎が語る、お寺にまつわる江戸の人間模様。
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安藤 優一郎 / 文
1965(昭和40)年千葉県生まれ。歴史家。江戸時代を専門とする。文学博士(早稲田大学)。NHK文化センターなどで生涯学習講座の講師を勤める。著書『徳川将軍家の演出力』『観光都市江戸の誕生』(新潮新書)では寺社の経営戦略を、新刊『江戸城・大奥の秘密』(文春新書)では、大奥とお寺の深いつながりを明らかにした。
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加藤 円正 / イラスト
昭和51年愛媛県生まれ。人口100人ほどの瀬戸内に浮かぶ島にある、お寺の住職。イラストレーション、板目木版を中心に絵を描く。妖怪と時代劇とロックンロールを好む。2005年『怪』(角川書店)「第二回怪大賞」にて京極夏彦氏より妖怪版画で京極賞を受賞。
→イラストレーター公式サイト