2007年9月11日

開帳が成功を収めるかどうかのカギはいくつかあります。どんなに話題を呼ぶ開帳であっても、天気には敵いません。雨天続きであったり、あるいは暑過ぎたり、寒過ぎたりでは、どうしても足は遠のいてしまいます。

しかし、天候は人の力ではどうにもならないわけですから、それ以外の点でリスクを減らそうとします。となると、立地環境が一番大事ということになるでしょう。元々、人が集まっているお寺を宿寺に選んで、開帳場とするのです。

実は江戸の出開帳の7割が、隅田川沿いの本所・深川・浅草のお寺を宿寺として選んでいました。言い換えると、集客力が期待できるお寺が、この地域に集中していたということです。なかでも、本所の回向院は、開帳場としてダントツの人気を誇っていました。

回向院は隅田川筋のお寺で、近くには両国橋が架かっていました。現在は両国と言うと、両国国技館江戸東京博物館というイベント館が頭に浮かんできますが、江戸時代は回向院が同じような役割を果たしていたのです。

回向院は、明暦の大火で焼死した者たちの慰霊のため、建立されたお寺です。絶えず参詣客で賑わう、集客力あるお寺として全国的に知られていました。

回向院の集客力が図抜けて高かったのは、何と言っても、両国橋という江戸のメインストリートに面していたからでした。両国橋を渡ると、すぐ目の前に回向院が立地しているという抜群の立地環境でした。

両国橋のたもとの広小路は、江戸随一の盛り場・エンタメ街として賑わっていました。そのすぐ隣に、回向院はあったのです。この周辺は、数多くの飲食店、さらに芝居小屋や見世物小屋までも林立していた歓楽街なのでした。

それだけ、両国橋周辺には人が自然と集まってきていたのですが、特に夏などは、涼を求めて隅田川沿いに繰り出す人々であふれ返りました。最近、隅田川花火大会はたいへん賑わっていますが、そうした物凄い人出を回向院は期待できたのです。そうした恵まれた立地環境が、集客力の高さの裏付けとなっていました。

勧進相撲は、集客力ある寺院の境内で行われていましたが、天保4年(1833)からは、回向院が定打ちの興行場所に指定されます。回向院の集客力の高さ、そして出開帳の宿寺として人気が高かったことの証明と言えるでしょう。

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江戸時代、お寺参りは町人たちのレジャーでした。当時世界一の人口規模を誇った観光都市江戸では、お寺がありとあらゆる工夫を凝らし、現代の広告代理店さながらの参詣客の争奪戦が繰り広げられておりました。江戸研究家の安藤優一郎が語る、お寺にまつわる江戸の人間模様。
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安藤 優一郎 / 文
1965(昭和40)年千葉県生まれ。歴史家。江戸時代を専門とする。文学博士(早稲田大学)。NHK文化センターなどで生涯学習講座の講師を勤める。著書『徳川将軍家の演出力』『観光都市江戸の誕生』(新潮新書)では寺社の経営戦略を、新刊『江戸城・大奥の秘密』(文春新書)では、大奥とお寺の深いつながりを明らかにした。
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→著者ブログ「江戸探訪記」
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加藤 円正 / イラスト
昭和51年愛媛県生まれ。人口100人ほどの瀬戸内に浮かぶ島にある、お寺の住職。イラストレーション、板目木版を中心に絵を描く。妖怪と時代劇とロックンロールを好む。2005年『怪』(角川書店)「第二回怪大賞」にて京極夏彦氏より妖怪版画で京極賞を受賞。
→イラストレーター公式サイト