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2007年9月 アーカイブ

2007年9月25日

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村役人の接待を通じて、成田村の賛同と協力を得た成田山ですが、お殿様に願書を提出する段となった時、思わぬ出来事が起きます。7月12日に、藩主の堀田正順が死去してしまったのです。忌明けまで、願書は提出できませんでした。

閏8月3日、忌明けとなりましたが、家督相続のため藩当局も取り込んでおり、願書を提出できたのは9月2日になってからです。その願書を読んでみましょう。

「成田山内の経堂と鐘楼堂が大破したが、自力で修復することができない。寛政元年(1789)の前例に倣って、江戸(深川永代寺)で明年3月より2ケ月の間開帳し、その寄進の助成をもって修復費としたい。この件を願い出るため江戸に赴き、寺社奉行所に願い出ることをお許しいただきたい。」

 前回の出開帳から、まだ20年も経過していませんでした。前回は、山内の堂社の造営費を捻出するとして開帳の許可を得ました。手を変え品を変え、何とかして開帳の許可を得ようというお寺の経営事情が見えてきます

もちろん、経堂と鐘楼堂が大破していたのは間違いなかったでしょう。ですが、復費の調達には、本当に開帳しか方法がなかったのかどうかまでは、残された記録からは分かりません。

9月11日に、佐倉藩当局は成田山に対して、江戸に赴くことを許しました。早速、翌々日の13日に、貫首の照誉は成田を立ちます。徒歩ですと、江戸までは1泊2日の行程でしたので、14日には江戸に入っています。浅草坂本町(現台東区松ケ谷)のお寺を宿所としています。

お殿様の許可を頂いたとは言え、問題はこれからです。無事に、寺社奉行の許可が貰えるかどうかは、貫首照誉の奔走次第なのでした。貫首の手腕が試されていたのです。

2007年9月25日

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成田山の江戸出開帳は、元禄16年を初回として、都合10回おこなわれました。一口に出開帳と言っても、その準備は大変なのですが、記録が豊富に残っている今から200年前の文化3年(1806)の事例から、その舞台裏を覗いてみましょう。

江戸で本尊を開帳すると言っても、勝手にはできませんでした。幕府の寺社奉行様の許可が必要でしたが、成田山のように地方のお寺の場合は、ご領主様(下総佐倉藩主堀田家)の許可も必要でした。

江戸出開帳は、文化3年3月1日から正味2ケ月間、深川永代寺で執り行われました。この企画が表に出てきたのは、前年の6月15日のことですが、この日、成田村の村役人たちに、来年江戸で開帳したいと打診したのです。なぜ、成田村に事前に打診する必要があったのでしょうか。

 成田不動が江戸に向かう時、かなり大がかりな行列が組まれます。大名行列のようなものですが、その時、成田村の村民たちに行列に加わってもらうわけです。2ケ月間にわたる開帳中、開帳小屋の警備やら何やらで、人出が必要なのですが、そのまま村民は江戸に滞在し、警備役も勤めるのです。

そもそも、成田山が江戸で開帳したいとお殿様に願う時には、成田山のある成田村の承認が必要でした。このため、最初に成田村に話を通しておく必要があったのです。他のお寺の場合も、江戸出開帳の時には、鎮座している町や村などの地方自治体の承認そして協力が必要という事情は同じでした。

ですから、この6月15日に村役人に集まってもらい、食事を出しながら、来年の開帳への協力を依頼したのです。もちろん、その数年前から成田山内部では江戸出開帳が検討されていたことでしょうが、この日、外部に向けて、来年の開帳計画を公表したのです。無事、成田村の承認は得られ、成田山は開帳の準備を進めていくことになります。

2007年9月18日

成田山が江戸で最初にご開帳をしたのは、元禄16年(1702)のことです。既に成田山は、前年の元禄15年(1701)に、本堂落慶記念として地元で居開帳を執り行っていました。

本堂の建立には巨額の費用を要しました。その建立費も借財が嵩んだ大きな理由でした。成田山は居開帳で得られた浄財を、その補填に当てたのですが、とても足りませんでした。ここに至り、江戸という巨大マーケットでの開帳が企画されたわけです。

この元禄期は開帳ブームが起きていた時期です。元禄と言うとバブルの時代ですが、そうした経済情勢とお寺の経営戦略は大いに関係しています。お寺としては好景気に沸く江戸のマーケットに目を付け、イベントを企画し、収益を挙げようと狙ったのです。その一つが、成田山なのでした。

深川の永代寺に本尊の不動明王を安置し、元禄16年4月27日から2ケ月間、江戸出開帳をおこないましたが、成田山は予想を上回る収益を挙げることができました。2000両以上の収入となり、借財をきれいに返済したばかりか、鐘楼などの建立費も充分に出たと言います。

大成功を収めた理由は、主に2つ挙げられます。1つは、将軍様やお殿様たちの奥方の支持を獲得できたことです。大奥の力は絶大でした。以後、成田山の強力な支持母体となっていきます。

出開帳が終わった後ですが、不動明王は江戸城に入り、桂昌院の礼拝を受けるという栄誉に浴しました。この事実は、成田山の知名度アップに大きくプラスとなります。

もう1つは、「成田屋!」で知られる江戸歌舞伎の代表格市川團十郎のバックアップを受けたことです。團十郎は、成田山の不動明王つまり成田不動を厚く信仰していました。

歌舞伎の舞台とは、流行の発信源であり、今で言えばテレビやネットに匹敵するメディアでした。役者は、流行の最先端を行く人気タレント、人気キャラクターでした。團十郎と言えば歌舞伎役者の代名詞のような存在ですが、その團十郎が、開帳中、歌舞伎の舞台で成田不動を演じたのです。成田山の知名度アップに、はかり知れない効果をもたらしたことは言うまでもありません。この後も、成田山が江戸出開帳するたびに、團十郎は成田不動を演じ続けます。

2007年9月18日

現在、初詣の人出ベスト3は、明治神宮成田山新勝寺川崎大師の順番で不動です。明治神宮は、大正9年(1920)に誕生した神社なので事情は違いますが、成田山と川崎大師がベスト3に入っているのは、江戸の巨大マーケットのお陰でした。江戸での営業活動が、現在の地位をもたらしたのです。特に成田山は、江戸出開帳の大成功が寺勢拡大の大きなきっかけとなりました

成田山に参詣するには、鉄道ならばJRと京成電鉄を使うことになります。東京と成田を結ぶ京成本線と言うと、成田空港へのアクセスというイメージが強いわけですが、元々は成田山への参詣者をターゲットにして敷設された鉄道でした。成田山に限らず、東京近郊の有力寺社は、東京から放射状に広がる鉄道の終点などに位置しています。と言うより、参詣者をターゲットにして鉄道が敷かれ、門前に駅が作られたのです。

東京と八王子を結ぶ京王線に、高尾山口という駅があります。東京から高尾山薬王院に参詣する人たちをターゲットにした駅です。東京と小田原を結ぶ小田急線に、伊勢原という駅があります。この駅も、東京から大山不動(大山阿夫利神社)に参詣する人たちをターゲットにした駅でした。そのほか、集客力あるお寺の門前に置かれた駅は数知れずあります。

成田駅を降りると、すぐ参道が広がっている成田山ですが、意外にも、元禄時代以前は全国区のお寺ではありませんでした。もちろん、成田地域の人々の厚い信仰を集めてはいましたが、百万都市江戸での知名度はほとんどなかったと言って良いでしょう。ですから、成田山がご開帳というイベントを江戸で打つのは大きな賭けでした。

当時、成田山は500両にも及ぶ借財を抱えていました。1両というのは現在で言うと、10万円ぐらいですから、単純計算して5000万円くらいの借財があったことになります。これから見ていきますように、一口に江戸で開帳と言っても、準備だけでも多額の費用が掛かります。その費用を超える収益をあげなければいけません。ですから、この賭けに失敗すると、大変なことになってしまうわけですが、凶ではなく大吉と出たのです。

2007年9月11日

ご開帳の成否は天候に左右されるところが大きかったわけですが、季節で見ると、春から夏の盛りになるまでの時期に主に企画されたようです。暑過ぎず、寒過ぎずといったところでしょう。

時代で見ると、元禄の頃(1700年頃)がピークだったようです。元禄期というと、1810~20年代の文化・文政期(化政文化)と並んで、華やかな江戸文化の象徴のような時代ですが、ちょうど、人口も百万を越えようとしていた時期でした。江戸経済の高度成長もピークに達していた、まさにバブルの時代です。そうした時代が、華やかな元禄文化を生んだわけです。紀伊国屋文左衛門の豪遊などは、そのシンボルでしょう。

この元禄文化を背景に、ご開帳ブームが生まれたのですが、成田山が最初の江戸出開帳を行ったのが、この時代でした。このイベントは大成功を収めました。ここに、明治神宮・川崎大師と並んで、初詣の人出ベスト3としての地位を確立するレールが敷かれたのです。

俗に、江戸出開帳四天王と呼ばれたお寺があります。この4つのお寺が図抜けて、多くの参詣客を江戸のマーケットで集めていたのです。京都嵯峨の清涼寺(釈迦如来)、長野の善光寺(阿弥陀如来)、山梨身延山の久遠寺(祖師像)、千葉の成田山新勝寺(不動明王)の4つです。

清涼寺と善光寺は、回向院を宿寺とすることが多かったようです。江戸出開帳四天王としての地位を保っていたのも、回向院の立地環境が大きかったのでしょう。

久遠寺の宿寺は、深川の浄心寺で固定していました。日蓮宗のお寺が出開帳する時は、必ず日蓮宗のお寺を選んだそうです。ご開帳は元禄期をピークとして、18世紀後半(江戸後期)に入ると、その数が減少していきます。市場が飽和状態となったことに加え、娯楽が多様化していたことが、マイナス要因となっていたようです。ただし、日蓮宗は逆に、江戸後期に入ると、江戸出開帳の数を急増させていったと言われています。

成田山は、同じ深川の永代寺を宿寺としたのですが、次回からは、この成田山を事例に、ご開帳の実際の様子を見ていきます。

2007年9月11日

開帳が成功を収めるかどうかのカギはいくつかあります。どんなに話題を呼ぶ開帳であっても、天気には敵いません。雨天続きであったり、あるいは暑過ぎたり、寒過ぎたりでは、どうしても足は遠のいてしまいます。

しかし、天候は人の力ではどうにもならないわけですから、それ以外の点でリスクを減らそうとします。となると、立地環境が一番大事ということになるでしょう。元々、人が集まっているお寺を宿寺に選んで、開帳場とするのです。

実は江戸の出開帳の7割が、隅田川沿いの本所・深川・浅草のお寺を宿寺として選んでいました。言い換えると、集客力が期待できるお寺が、この地域に集中していたということです。なかでも、本所の回向院は、開帳場としてダントツの人気を誇っていました。

回向院は隅田川筋のお寺で、近くには両国橋が架かっていました。現在は両国と言うと、両国国技館江戸東京博物館というイベント館が頭に浮かんできますが、江戸時代は回向院が同じような役割を果たしていたのです。

回向院は、明暦の大火で焼死した者たちの慰霊のため、建立されたお寺です。絶えず参詣客で賑わう、集客力あるお寺として全国的に知られていました。

回向院の集客力が図抜けて高かったのは、何と言っても、両国橋という江戸のメインストリートに面していたからでした。両国橋を渡ると、すぐ目の前に回向院が立地しているという抜群の立地環境でした。

両国橋のたもとの広小路は、江戸随一の盛り場・エンタメ街として賑わっていました。そのすぐ隣に、回向院はあったのです。この周辺は、数多くの飲食店、さらに芝居小屋や見世物小屋までも林立していた歓楽街なのでした。

それだけ、両国橋周辺には人が自然と集まってきていたのですが、特に夏などは、涼を求めて隅田川沿いに繰り出す人々であふれ返りました。最近、隅田川花火大会はたいへん賑わっていますが、そうした物凄い人出を回向院は期待できたのです。そうした恵まれた立地環境が、集客力の高さの裏付けとなっていました。

勧進相撲は、集客力ある寺院の境内で行われていましたが、天保4年(1833)からは、回向院が定打ちの興行場所に指定されます。回向院の集客力の高さ、そして出開帳の宿寺として人気が高かったことの証明と言えるでしょう。

2007年9月 4日

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ご開帳には、居開帳と出開帳の2つがあります。

居開帳とは、その神仏を所持する寺社で開帳するもの。出開帳は、地代を支払い、他のお寺の境内で開帳するものです。境内を貸したお寺を、宿寺(やどてら)と呼んでいました。

居開帳のうち、年中行事として行われるものは寺社奉行の許可は不要でしたが、特別な理由を付けて開帳するものは、その許可が必要でした。前回取り上げた、浅草寺での本尊出現1150年目を記念した御開帳などが、それに該当します。出開帳の場合は、いずれにせよ寺社奉行の許可が必要でした。

さて、一口に開帳と言っても、いろいろなパターンがありました。浅草寺(居開帳)の場合を見てみましょう。

ご開帳は、通例33年に1度の間隔でおこなうものとされていました。これを、順年開帳と呼びます。

となると、浅草寺のご本尊の開帳は33年に1回のはずでしたが、実際の頻度はそれ以上でした。何故かと言うと、何かと理由を付けて、御開帳の許可を取っていたのです。江戸260年程を通して、30数回も開帳したと伝えられています。33年どころか、10年も経過しないうちに開帳している計算になります。

例えば、本堂の再建や大修復の落成を記念して、ご開帳が許可されています。これを落成開帳と呼びますが、修復費に充てるという目論見もあったのではないでしょうか。

本堂の修復費を得るため、ご開帳を願い出て許可される事例もありました。これは助成開帳ですが、その収益の使途は落成開帳とあまり変わらなかったかも知れません。

縁起開帳もあります。ご本尊が出現して1150年目を記念した開帳などがあてはまります。そうした縁起を記念して企画されたのです。

将軍が浅草寺を訪れて参拝することもありましたが、その際、浅草寺では将軍のために、特別に本尊を開帳します。その後、将軍からの恩恵という形で、一般に開帳することがありました。お寺の側から申請して許可されるのですが、これを御成跡(おなりあと)開帳と呼びます。時代劇でお馴染みの、「上様御成」というフレーズがありますが、上様つまり将軍様の御成を理由に、開帳の許可を取り付けたのです。

将軍様関係で言うと、祈願開帳というものもあります。将軍様に御世継ぎの誕生などの慶事があった時、そのお祝いとしてご開帳を願い出るのでした。

2007年9月 4日

開帳の回数は、春夏秋冬の季節ごと、5つ以内と決められていました。江戸では年間20件に制限されていましたが、江戸のお寺が年中行事としていた開帳は対象外でした。ですから、江戸の場合、20回しか、ご開帳があったのではありません。それどころか、その数を遥かに越えた開帳数でした。毎週、もしかしたら毎日のように、江戸のどこかでご開帳は行われていたのかも知れません。

そもそも、江戸の町にはどれくらい、お寺があったのでしょうか。

正確なところは分からないのですが、全国で見ると、95万9042ケ寺という数字があります。これは、文化12年(1815)の数字ですが、日本の総人口は3000万人と言いますから、およそ30人に1つのお寺という計算になります。

少し多過ぎるような気もしますし、一口にお寺と言っても、その格差はたいへん激しいのですが、江戸時代のお寺の数が、数十万のレベルであったことは間違いないでしょう。現在、お寺の数は7万以上。コンビニの数より多いと喩えられますが、江戸のお寺の数はその10倍以上あったのです。明治に入ると、廃寺や合併などで、その数が激減してしまうことになります。

そして、江戸の町についてみれば、お寺の数は数千、もしかしたら1万を越えていたかもしれません。もちろん、ご開帳しないお寺もあったでしょうが、単純計算で言えば、毎日江戸のどこかでご開帳していたと言っても、決して言い過ぎではないのです。

江戸が日本で一番、お寺の数が多く、お坊さんがあふれていた町であったことは間違いありません。江戸は人口百万人以上を抱える日本最大の都市でしたが、お寺やお坊さんにとっては、競争相手も多い、日本で一番激しいマーケットと言えるのではないでしょうか。

浅草寺などは、境内に169の神仏が祀られているということですが、これらの神仏にも縁日があり、ご開帳もあったことでしょう。しかし、ご本尊が出現して1150年目などという区切りに、臨時に御開帳を企画する時は、浅草寺挙げての行事となります。

何十年に一度というイベントですから、年中行事のご開帳よりも、参詣者のアップが当然期待できます。お寺の側はこのチャンスを活かして収益を挙げようと、必死に知恵を絞ることになります。しかし、見方を変えると、その臨時収入がないと、堂社などハード面の整備は、自力では到底不可能だったとも言えるのです。

江戸時代、お寺参りは町人たちのレジャーでした。当時世界一の人口規模を誇った観光都市江戸では、お寺がありとあらゆる工夫を凝らし、現代の広告代理店さながらの参詣客の争奪戦が繰り広げられておりました。江戸研究家の安藤優一郎が語る、お寺にまつわる江戸の人間模様。
→ブログに登場する江戸名所の地図
安藤 優一郎 / 文
1965(昭和40)年千葉県生まれ。歴史家。江戸時代を専門とする。文学博士(早稲田大学)。NHK文化センターなどで生涯学習講座の講師を勤める。著書『徳川将軍家の演出力』『観光都市江戸の誕生』(新潮新書)では寺社の経営戦略を、新刊『江戸城・大奥の秘密』(文春新書)では、大奥とお寺の深いつながりを明らかにした。
→著者公式サイト
→著者ブログ「江戸探訪記」
→著者ブログ「大江戸グルメ日記」
加藤 円正 / イラスト
昭和51年愛媛県生まれ。人口100人ほどの瀬戸内に浮かぶ島にある、お寺の住職。イラストレーション、板目木版を中心に絵を描く。妖怪と時代劇とロックンロールを好む。2005年『怪』(角川書店)「第二回怪大賞」にて京極夏彦氏より妖怪版画で京極賞を受賞。
→イラストレーター公式サイト