2007年8月21日

御免勧化の枠に入るのはお寺にとって至難の技でしたが、幕府は明和3年(1766)に、相対勧化という助成策を新たに打ち出します。

御免勧化には寺社奉行連名の勧化状が発給されましたが、この相対勧化の勧化状は、寺社奉行1名のみの捺印でした。幕府の許可を得た勧化ではありましたが、御免勧化よりも格が低く、先のような御触書、つまり政令のようなものも出されませんでした。

このため、相対勧化が許可されたお寺は、対象地域のお殿様やお代官様から、直接にはバックアップが受けられませんでした。お寺が勧化のため巡行してくる旨が伝えられなかったため、領民に対して西大寺の場合のように、巡行してきたら寄進するよう指示を下す必要はなかったのです。

相対勧化の場合、お寺の側は自力で対象地域を回り、寄進を募ったわけです。その期間は90日で、事情によって30日間の延長を許可するというものでした。

とは言え、幕府の許可を得て、寺社奉行の勧化状を持っている以上、何の後ろ盾もなく寄進を募って回る自分勧化よりは、はるかに有利だったことは間違いありません。ネームバリューのあるお寺の名前を騙って、勧化にやって来る事例も多かったようですが、携帯している寺社奉行の勧化状は、そのお寺が本物であることの証明書でもありました。

御免勧化にせよ、相対勧化にせよ、どれくらいの額を集められたのか、残念ながら、その辺りの数字はよく分かりません。ちなみに、御免勧化の場合、一つの村で200文ぐらい寄進したという数字があります。幕府の許可を得ない勧化の場合は、それよりも低かったと言います。

200文というのは、現代の貨幣単位に直すと、どれくらいの額でしょうか。二八蕎麦という言葉がありますが、かけそば1杯が16文です。地方の旅籠屋に1泊すると、その料金は250文と言いますから、おおよその見当が付くと思います。

いずれにせよ、村民個人の寄進ではなく、村という一つの自治体からの寄進でした。お寺が村を回っていく場合も、村民の家を回って歩くのではなく、村長のような村の有力者の家を回って、勧化を依頼するのが普通だったようです。世間の助力により修復費を調達せよ、と幕府はお触れで述べているのですが、村からの寄進も世間の助力に他なりませんでした。この世間という言葉には、村や町などの地方自治体も含まれていたのです。現在で言えば、市町村ということになるわけです。

しかし、幕府お墨付きの勧化とは言っても、期待するほど集まらなかった事例は多かったようです。お寺は窮してしまうわけですが、その場合にはもう一つの方法がありました。ご開帳により、目的額を達成しようとしたのです。

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江戸時代、お寺参りは町人たちのレジャーでした。当時世界一の人口規模を誇った観光都市江戸では、お寺がありとあらゆる工夫を凝らし、現代の広告代理店さながらの参詣客の争奪戦が繰り広げられておりました。江戸研究家の安藤優一郎が語る、お寺にまつわる江戸の人間模様。
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安藤 優一郎 / 文
1965(昭和40)年千葉県生まれ。歴史家。江戸時代を専門とする。文学博士(早稲田大学)。NHK文化センターなどで生涯学習講座の講師を勤める。著書『徳川将軍家の演出力』『観光都市江戸の誕生』(新潮新書)では寺社の経営戦略を、新刊『江戸城・大奥の秘密』(文春新書)では、大奥とお寺の深いつながりを明らかにした。
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加藤 円正 / イラスト
昭和51年愛媛県生まれ。人口100人ほどの瀬戸内に浮かぶ島にある、お寺の住職。イラストレーション、板目木版を中心に絵を描く。妖怪と時代劇とロックンロールを好む。2005年『怪』(角川書店)「第二回怪大賞」にて京極夏彦氏より妖怪版画で京極賞を受賞。
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