御免勧化の枠に入るのはお寺にとって至難の技でしたが、幕府は明和3年(1766)に、相対勧化という助成策を新たに打ち出します。
御免勧化には寺社奉行連名の勧化状が発給されましたが、この相対勧化の勧化状は、寺社奉行1名のみの捺印でした。幕府の許可を得た勧化ではありましたが、御免勧化よりも格が低く、先のような御触書、つまり政令のようなものも出されませんでした。
このため、相対勧化が許可されたお寺は、対象地域のお殿様やお代官様から、直接にはバックアップが受けられませんでした。お寺が勧化のため巡行してくる旨が伝えられなかったため、領民に対して西大寺の場合のように、巡行してきたら寄進するよう指示を下す必要はなかったのです。
相対勧化の場合、お寺の側は自力で対象地域を回り、寄進を募ったわけです。その期間は90日で、事情によって30日間の延長を許可するというものでした。
とは言え、幕府の許可を得て、寺社奉行の勧化状を持っている以上、何の後ろ盾もなく寄進を募って回る自分勧化よりは、はるかに有利だったことは間違いありません。ネームバリューのあるお寺の名前を騙って、勧化にやって来る事例も多かったようですが、携帯している寺社奉行の勧化状は、そのお寺が本物であることの証明書でもありました。
御免勧化にせよ、相対勧化にせよ、どれくらいの額を集められたのか、残念ながら、その辺りの数字はよく分かりません。ちなみに、御免勧化の場合、一つの村で200文ぐらい寄進したという数字があります。幕府の許可を得ない勧化の場合は、それよりも低かったと言います。
200文というのは、現代の貨幣単位に直すと、どれくらいの額でしょうか。二八蕎麦という言葉がありますが、かけそば1杯が16文です。地方の旅籠屋に1泊すると、その料金は250文と言いますから、おおよその見当が付くと思います。
いずれにせよ、村民個人の寄進ではなく、村という一つの自治体からの寄進でした。お寺が村を回っていく場合も、村民の家を回って歩くのではなく、村長のような村の有力者の家を回って、勧化を依頼するのが普通だったようです。世間の助力により修復費を調達せよ、と幕府はお触れで述べているのですが、村からの寄進も世間の助力に他なりませんでした。この世間という言葉には、村や町などの地方自治体も含まれていたのです。現在で言えば、市町村ということになるわけです。
しかし、幕府お墨付きの勧化とは言っても、期待するほど集まらなかった事例は多かったようです。お寺は窮してしまうわけですが、その場合にはもう一つの方法がありました。ご開帳により、目的額を達成しようとしたのです。