2007年8月21日

お殿様やお代官様が勧化の事務を代行してくれなくても、幕府のお墨付きが得られれば、領内の勧化活動ではバックアップが期待できました。当然のことながら、御免勧化を望むお寺の数はたいへん多く、寺社奉行には願書が殺到することになります。

御免勧化の最初は、享保7年と言われています。吉宗が財政難を諸大名にカミングアウトして米の献納を命じたのが同じ年ですから、幕府の財政難と無関係ではなかったでしょう。寄進するよう命じるだけですから、直接、幕府の懐は痛みません。巧妙な助成策でした。

お寺の修復に対する幕府の基本的なスタンスは、幕府にもたれることなく、世間の助力で修復費を捻出するようにというものでした。世間の助力の範疇には、勧化による浄財のほか、ご開帳時の浄財も含まれています。

その一方、幕府から勧化の事務を押しつけられた形のお殿様たちの方は、いろいろ大変だったようです。幕府の命令とは言え、それを迷惑がる向きがあったのも事実ですが、お寺にとっては好条件ですから、御免勧化願いが減ることはありませんでした。

しかし、幕府費用による修復や修復費の給付・拝借ほどではありませんでしたが、御免勧化の場合も狭き門だったことには変わりはありません。その基準ですが、幕府の費用で建立されたという由緒を持つお寺や、特別な理由のあるお寺に限られていました。言い換えると、お寺の大半はその対象外だったということです。

ですが、その狭き門を突破しようと、お寺は様々な策をめぐらします。何とかして、その特別な理由の範疇に入ろうとします。そこでは、格式の高さが重視されていたのですが、この頃、自分のお寺の僧侶を、京都のお公家さんの養子にする事例が数多くみられたようです。

お公家さんは官位が高く、官位だけ見ると、普通の大名の遥か上を行っていました。養子と言うのはお寺の格式を高める手段だったわけですが、こうした手段を講じてまで格式を高め、勧化を認めてもらおうとしていたのです。

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江戸時代、お寺参りは町人たちのレジャーでした。当時世界一の人口規模を誇った観光都市江戸では、お寺がありとあらゆる工夫を凝らし、現代の広告代理店さながらの参詣客の争奪戦が繰り広げられておりました。江戸研究家の安藤優一郎が語る、お寺にまつわる江戸の人間模様。
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安藤 優一郎 / 文
1965(昭和40)年千葉県生まれ。歴史家。江戸時代を専門とする。文学博士(早稲田大学)。NHK文化センターなどで生涯学習講座の講師を勤める。著書『徳川将軍家の演出力』『観光都市江戸の誕生』(新潮新書)では寺社の経営戦略を、新刊『江戸城・大奥の秘密』(文春新書)では、大奥とお寺の深いつながりを明らかにした。
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加藤 円正 / イラスト
昭和51年愛媛県生まれ。人口100人ほどの瀬戸内に浮かぶ島にある、お寺の住職。イラストレーション、板目木版を中心に絵を描く。妖怪と時代劇とロックンロールを好む。2005年『怪』(角川書店)「第二回怪大賞」にて京極夏彦氏より妖怪版画で京極賞を受賞。
→イラストレーター公式サイト