お殿様やお代官様が勧化の事務を代行してくれなくても、幕府のお墨付きが得られれば、領内の勧化活動ではバックアップが期待できました。当然のことながら、御免勧化を望むお寺の数はたいへん多く、寺社奉行には願書が殺到することになります。
御免勧化の最初は、享保7年と言われています。吉宗が財政難を諸大名にカミングアウトして米の献納を命じたのが同じ年ですから、幕府の財政難と無関係ではなかったでしょう。寄進するよう命じるだけですから、直接、幕府の懐は痛みません。巧妙な助成策でした。
お寺の修復に対する幕府の基本的なスタンスは、幕府にもたれることなく、世間の助力で修復費を捻出するようにというものでした。世間の助力の範疇には、勧化による浄財のほか、ご開帳時の浄財も含まれています。
その一方、幕府から勧化の事務を押しつけられた形のお殿様たちの方は、いろいろ大変だったようです。幕府の命令とは言え、それを迷惑がる向きがあったのも事実ですが、お寺にとっては好条件ですから、御免勧化願いが減ることはありませんでした。
しかし、幕府費用による修復や修復費の給付・拝借ほどではありませんでしたが、御免勧化の場合も狭き門だったことには変わりはありません。その基準ですが、幕府の費用で建立されたという由緒を持つお寺や、特別な理由のあるお寺に限られていました。言い換えると、お寺の大半はその対象外だったということです。
ですが、その狭き門を突破しようと、お寺は様々な策をめぐらします。何とかして、その特別な理由の範疇に入ろうとします。そこでは、格式の高さが重視されていたのですが、この頃、自分のお寺の僧侶を、京都のお公家さんの養子にする事例が数多くみられたようです。
お公家さんは官位が高く、官位だけ見ると、普通の大名の遥か上を行っていました。養子と言うのはお寺の格式を高める手段だったわけですが、こうした手段を講じてまで格式を高め、勧化を認めてもらおうとしていたのです。