2007年8月14日

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御免勧化とは、幕府を後ろ盾にした勧化でしたから、かなりの寄進が期待できました。あくまで、寄進は当人の意志ですが、半ば義務的なものとして捉えられていたでしょう。お寺の側はそこに期待していました。まさしく、お墨付きの勧化の旅でした。

西大寺は幕府のお墨付きを持って、対象地域を巡行したのですが、わざわざ巡行しなくても、自然と金品が集まってくる御免勧化もありました。享保7年(1722)4月に、熊野三山が権現社修復のため勧化を許可された時の事例を見てみましょう。この勧化の対象地域は日本全国ですが、期間は1年間だったようです。

熊野三山の者たちが諸大名の江戸屋敷を回り、勧化への協力を依頼すると、大名の方が三山に代わって勧化の事務を取ってくれました。大名側に勧化帳を渡して置くと、江戸屋敷の家臣たちの間や領内に、勧化帳が回っていく段取りになっていたわけです。あらかじめ幕府から諸大名に、そのように指示していたのです。この場合も政令のようなものでしたが、その内容を見てみます。

江戸屋敷内で寄進された分は、4月から8月までの間に、三山の者が請取に出向いて来る。領内で集めた分は、10月から翌年3月までの間に、江戸屋敷・京都屋敷・大坂屋敷に請取に出向いて来るという趣旨でした。

どの大名も、江戸には屋敷がありましたが、京都や大坂に屋敷があった大名の場合は、京都屋敷か大坂屋敷に送っておけば、三山の者が請取にやって来るシステムになっていたのです。西国の大名は京都や大坂に屋敷を持っていましたから、その場合は江戸に送らずに、京都や大坂屋敷に送ったのでしょう。熊野三山にしても、和歌山県にあるわけですから、その方が好都合だったと言えます。

大名領での勧化の事務は大名が取ってくれましたが、幕府領の場合はお代官様が勧化帳を回してくれました。わざわざ全国を回らなくても、お殿様やお代官様がその実務を代行して、寄進品を集めてくれたのです。

お寺にとっては至れり尽くせりで、願ってもないシステムでした。ですが、その恩恵に預かれるのは、限られた大寺院だけだったのです。

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江戸時代、お寺参りは町人たちのレジャーでした。当時世界一の人口規模を誇った観光都市江戸では、お寺がありとあらゆる工夫を凝らし、現代の広告代理店さながらの参詣客の争奪戦が繰り広げられておりました。江戸研究家の安藤優一郎が語る、お寺にまつわる江戸の人間模様。
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安藤 優一郎 / 文
1965(昭和40)年千葉県生まれ。歴史家。江戸時代を専門とする。文学博士(早稲田大学)。NHK文化センターなどで生涯学習講座の講師を勤める。著書『徳川将軍家の演出力』『観光都市江戸の誕生』(新潮新書)では寺社の経営戦略を、新刊『江戸城・大奥の秘密』(文春新書)では、大奥とお寺の深いつながりを明らかにした。
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加藤 円正 / イラスト
昭和51年愛媛県生まれ。人口100人ほどの瀬戸内に浮かぶ島にある、お寺の住職。イラストレーション、板目木版を中心に絵を描く。妖怪と時代劇とロックンロールを好む。2005年『怪』(角川書店)「第二回怪大賞」にて京極夏彦氏より妖怪版画で京極賞を受賞。
→イラストレーター公式サイト