2007年7月 3日

東京には、大奥との由緒で建立されたお寺がたくさんあります。

徳川家康の生母・於大の方は、法名を伝通院と言います。於大の方は、大奥とは直接関係がありませんが、その菩提を弔うお寺が文京区小石川にあります。寺名は、法名から伝通院と名付けられました。伝通院には、あの有名な千姫、弟にあたる家光の御台所(鷹司孝子)のお墓もあり、幕府から厚い保護を受けていました。

大奥を創り上げた家光の乳母春日局は、法名を麟祥院と言いました。そのため、春日局が開基となって創建したお寺の名前は麟祥院ということになりました。湯島天神の近くにありますが、その前を走る春日通りは、この春日局にちなんで付けられました。

大奥とのつながりにより創建され、幕府から厚く保護されたお寺は他にもあります。なかでも、護国寺はそのシンボルのようなお寺でした。

偶然にも、護国寺は伝通院・麟祥院と同じく、東京都文京区にあります。東京の地下鉄の駅のなかで、お寺の名前が駅名となっているのは、護国寺だけでしょう。東高円寺、新高円寺という駅名もありますが、高円寺そのままではありませんので、護国寺が唯一ということになります。

護国寺は真言宗豊山派のお寺ですが、開山は亮賢というお坊さんです。元々は、群馬県の護国寺というお寺の住職でした。正保3年(1646)に、将軍家光の側室だったお玉(後の桂昌院)は綱吉を産みますが、亮賢の祈祷により、男の子を授かったと言われています。そのため、お玉(家光に死別した後、桂昌院と名乗ります)は亮賢に深く帰依していましたが、延宝8年(1680)に、綱吉が5代将軍となります。

本来、綱吉は将軍になれる立場にはありませんでした。ところが、4代将軍家綱に子供がなく、家綱が死去する前に、綱吉の兄・綱重(6代将軍家宣の父)がすでに死去していたため、はからずも将軍となりました。

綱吉が将軍となると、桂昌院は亮賢のために幕府を動かし、現在の護国寺の地を用意し、亮賢を開山とするお寺・護国寺を創建しました。桂昌院は綱吉と一緒に、何度となく参詣しています。国家予算によって境内の堂社が整備されるなど、桂昌院と綱吉の強力のバックアップを受けて、護国寺は巨大化していきます。護国寺3世の快世は、ついに大僧正にまで上ります。

大奥の最大実力者桂昌院の信頼を勝ち取って、幕府のバックアップを受けることが、どんなに大きかったかを、護国寺の成り立ちは教えてくれるのです。まさしく、護国寺は大奥が作り出したお寺なのでした。

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江戸時代、お寺参りは町人たちのレジャーでした。当時世界一の人口規模を誇った観光都市江戸では、お寺がありとあらゆる工夫を凝らし、現代の広告代理店さながらの参詣客の争奪戦が繰り広げられておりました。江戸研究家の安藤優一郎が語る、お寺にまつわる江戸の人間模様。
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安藤 優一郎 / 文
1965(昭和40)年千葉県生まれ。歴史家。江戸時代を専門とする。文学博士(早稲田大学)。NHK文化センターなどで生涯学習講座の講師を勤める。著書『徳川将軍家の演出力』『観光都市江戸の誕生』(新潮新書)では寺社の経営戦略を、新刊『江戸城・大奥の秘密』(文春新書)では、大奥とお寺の深いつながりを明らかにした。
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→著者ブログ「江戸探訪記」
→著者ブログ「大江戸グルメ日記」
加藤 円正 / イラスト
昭和51年愛媛県生まれ。人口100人ほどの瀬戸内に浮かぶ島にある、お寺の住職。イラストレーション、板目木版を中心に絵を描く。妖怪と時代劇とロックンロールを好む。2005年『怪』(角川書店)「第二回怪大賞」にて京極夏彦氏より妖怪版画で京極賞を受賞。
→イラストレーター公式サイト