
成田山と並んで初詣でのベスト3に数えられる川崎大師も、大奥との関係が深かったお寺の1つでした。川崎大師は、現在も厄除け大師として知られていますが、11代将軍家斉以後、前・後厄の年に将軍が参詣するお寺として位置付けられます。
川崎大師も江戸出開帳を通じて、知名度をアップさせていくのですが、成田不動と同じく、江戸城に入り、家斉とその御台所茂姫の礼拝を受けています。その折には、厄除けのお守りと御洗米を千体ずつ献上しています。江戸城に入ったこと自体、大きな話題になったでしょうが、この献上品なども、厄除け大師の営業戦略に他なりません。家斉の頃は1000人前後の奥女中がいたと言いますが、良い宣伝になったことでしょう。
大奥からは、毎月のように、奥女中たちの川崎大師参詣がありました。営業戦略の賜物というわけですが、彼女たちにとっても、川崎までの道中は日帰り旅行なようなものでしたから、この上ない楽しみになったことでしょう。
さて、成田山や川崎大師に限らず、お寺が江戸にやってきた際、ご本尊は江戸城や開帳場のお寺(回向院や浅草寺など)だけにいたのではありません。将軍の娘が嫁いだ諸大名の江戸屋敷も回っています。
将軍の娘が諸大名に嫁ぐと、御殿が建設されることになっていました。これを御守殿(ごしゅでん)、御住居(おすまい)と呼びます。東京大学の赤門は、家斉の娘溶姫が加賀藩主前田斉泰に嫁いだ際に、前田家が本郷屋敷内に建設した御殿の門なのですが、江戸にはこうした御殿が、嫁いだ将軍の娘の人数だけありました。御本尊は、その要請に応えてこれらの御殿も回っていったのです。
御殿の主である将軍の娘に仕える奥女中たちは、大奥から出向してきた女性でした。ですから、江戸城に御本尊が入るという情報は、前もってキャッチしていたことでしょう。大奥の奥女中が拝んだとなれば、自分たちも拝みたいということで、争うように誘致するわけです。
お寺にとってみれば、その大名家に足がかりを得るとともに、殿様や家臣たちにも名前を知ってもらえる絶好のチャンスでした。江戸城に入った時と同じく、お守りなどを献上していますが、その時は、賽銭箱も一緒に回っています。お坊さん、御本尊そして賽銭箱まで、赤門をくぐっていたわけです。名も実も掴み取ろうというお寺のしたたかさが、こういう所にも表れています。江戸のお寺は大奥なしに、経営戦略を立てることはできなかったのです。