2007年7月24日

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成田山と並んで初詣でのベスト3に数えられる川崎大師も、大奥との関係が深かったお寺の1つでした。川崎大師は、現在も厄除け大師として知られていますが、11代将軍家斉以後、前・後厄の年に将軍が参詣するお寺として位置付けられます。

川崎大師も江戸出開帳を通じて、知名度をアップさせていくのですが、成田不動と同じく、江戸城に入り、家斉とその御台所茂姫の礼拝を受けています。その折には、厄除けのお守りと御洗米を千体ずつ献上しています。江戸城に入ったこと自体、大きな話題になったでしょうが、この献上品なども、厄除け大師の営業戦略に他なりません。家斉の頃は1000人前後の奥女中がいたと言いますが、良い宣伝になったことでしょう。

大奥からは、毎月のように、奥女中たちの川崎大師参詣がありました。営業戦略の賜物というわけですが、彼女たちにとっても、川崎までの道中は日帰り旅行なようなものでしたから、この上ない楽しみになったことでしょう。

さて、成田山や川崎大師に限らず、お寺が江戸にやってきた際、ご本尊は江戸城や開帳場のお寺(回向院や浅草寺など)だけにいたのではありません。将軍の娘が嫁いだ諸大名の江戸屋敷も回っています。

将軍の娘が諸大名に嫁ぐと、御殿が建設されることになっていました。これを御守殿(ごしゅでん)、御住居(おすまい)と呼びます。東京大学の赤門は、家斉の娘溶姫が加賀藩主前田斉泰に嫁いだ際に、前田家が本郷屋敷内に建設した御殿の門なのですが、江戸にはこうした御殿が、嫁いだ将軍の娘の人数だけありました。御本尊は、その要請に応えてこれらの御殿も回っていったのです。

御殿の主である将軍の娘に仕える奥女中たちは、大奥から出向してきた女性でした。ですから、江戸城に御本尊が入るという情報は、前もってキャッチしていたことでしょう。大奥の奥女中が拝んだとなれば、自分たちも拝みたいということで、争うように誘致するわけです。

お寺にとってみれば、その大名家に足がかりを得るとともに、殿様や家臣たちにも名前を知ってもらえる絶好のチャンスでした。江戸城に入った時と同じく、お守りなどを献上していますが、その時は、賽銭箱も一緒に回っています。お坊さん、御本尊そして賽銭箱まで、赤門をくぐっていたわけです。名も実も掴み取ろうというお寺のしたたかさが、こういう所にも表れています。江戸のお寺は大奥なしに、経営戦略を立てることはできなかったのです。

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江戸時代、お寺参りは町人たちのレジャーでした。当時世界一の人口規模を誇った観光都市江戸では、お寺がありとあらゆる工夫を凝らし、現代の広告代理店さながらの参詣客の争奪戦が繰り広げられておりました。江戸研究家の安藤優一郎が語る、お寺にまつわる江戸の人間模様。
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安藤 優一郎 / 文
1965(昭和40)年千葉県生まれ。歴史家。江戸時代を専門とする。文学博士(早稲田大学)。NHK文化センターなどで生涯学習講座の講師を勤める。著書『徳川将軍家の演出力』『観光都市江戸の誕生』(新潮新書)では寺社の経営戦略を、新刊『江戸城・大奥の秘密』(文春新書)では、大奥とお寺の深いつながりを明らかにした。
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→著者ブログ「江戸探訪記」
→著者ブログ「大江戸グルメ日記」
加藤 円正 / イラスト
昭和51年愛媛県生まれ。人口100人ほどの瀬戸内に浮かぶ島にある、お寺の住職。イラストレーション、板目木版を中心に絵を描く。妖怪と時代劇とロックンロールを好む。2005年『怪』(角川書店)「第二回怪大賞」にて京極夏彦氏より妖怪版画で京極賞を受賞。
→イラストレーター公式サイト