2007年7月17日

大奥と結び付くことで、のしあがっていったお寺は、江戸のお寺だけではありません。地方のお寺も江戸に出てきて、大奥との結び付きを梃子に、知名度を上げていきます。江戸での出開帳は、寺勢を拡大する上での必須のコンテンツとなっていました。

江戸は全国のお寺が出張して来て、御本尊を開帳するメッカでした。百万都市だけに相当の収益が上げられましたが、その名前を売り込む絶好のチャンスでもありました。開帳中は大奥をはじめ、諸大名の奥向きからも、奥女中たちが参詣に訪れました。そこで目に留まれば、大奥との人脈が得られるわけです。

大奥からの参詣を待つだけでなく、その求めに応じて、大奥に入ることもありました。その時は、ご本尊だけでなく、お坊さんたちも入ることになります。大奥と言っても、全ての部屋が男子禁制ではありませんから、どこかの部屋に安置され、彼女たちの礼拝を受けたのです。

護国寺を強力にバックアップした桂昌院は、神仏にはたいへん関心がある女性でした。桂昌院の礼拝を受けた神仏の一つに成田不動があります。護国寺の場合と同じく、成田山の歴史を振り返ってみると、桂昌院がそこで果たした役割は無視できないものがあります。

成田不動は成田山の本尊ですが、この元禄の頃までは、現代とは違って、成田山は全国にその名を知られたお寺ではありませんでした。この頃、成田山は借財の返済にも苦しんでいましたが、その窮状を打開するため、江戸ではじめての出開帳をおこないます。

この出開帳は大成功を収め、その収益により借財を返済しますが、成田不動の知名度も全国区のものとなります。桂昌院の礼拝を受けるため、江戸城に入ったのです。元禄16年(1702)7月4日のことでした。

この時、桂昌院は10両を奉納していますが、寄進者の名簿を見ると、諸大名の奥方からの寄進が目に付きます。元禄の江戸出開帳を通じて、成田山は桂昌院つまり大奥だけでなく、諸大名の奥向きからの信頼も得たのです。こうした江戸での営業活動の積み重ねが、初詣の人出ベスト3の地位を獲得する大きな要因となっていくのでした。

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江戸時代、お寺参りは町人たちのレジャーでした。当時世界一の人口規模を誇った観光都市江戸では、お寺がありとあらゆる工夫を凝らし、現代の広告代理店さながらの参詣客の争奪戦が繰り広げられておりました。江戸研究家の安藤優一郎が語る、お寺にまつわる江戸の人間模様。
→ブログに登場する江戸名所の地図
安藤 優一郎 / 文
1965(昭和40)年千葉県生まれ。歴史家。江戸時代を専門とする。文学博士(早稲田大学)。NHK文化センターなどで生涯学習講座の講師を勤める。著書『徳川将軍家の演出力』『観光都市江戸の誕生』(新潮新書)では寺社の経営戦略を、新刊『江戸城・大奥の秘密』(文春新書)では、大奥とお寺の深いつながりを明らかにした。
→著者公式サイト
→著者ブログ「江戸探訪記」
→著者ブログ「大江戸グルメ日記」
加藤 円正 / イラスト
昭和51年愛媛県生まれ。人口100人ほどの瀬戸内に浮かぶ島にある、お寺の住職。イラストレーション、板目木版を中心に絵を描く。妖怪と時代劇とロックンロールを好む。2005年『怪』(角川書店)「第二回怪大賞」にて京極夏彦氏より妖怪版画で京極賞を受賞。
→イラストレーター公式サイト