大奥と結び付くことで、のしあがっていったお寺は、江戸のお寺だけではありません。地方のお寺も江戸に出てきて、大奥との結び付きを梃子に、知名度を上げていきます。江戸での出開帳は、寺勢を拡大する上での必須のコンテンツとなっていました。
江戸は全国のお寺が出張して来て、御本尊を開帳するメッカでした。百万都市だけに相当の収益が上げられましたが、その名前を売り込む絶好のチャンスでもありました。開帳中は大奥をはじめ、諸大名の奥向きからも、奥女中たちが参詣に訪れました。そこで目に留まれば、大奥との人脈が得られるわけです。
大奥からの参詣を待つだけでなく、その求めに応じて、大奥に入ることもありました。その時は、ご本尊だけでなく、お坊さんたちも入ることになります。大奥と言っても、全ての部屋が男子禁制ではありませんから、どこかの部屋に安置され、彼女たちの礼拝を受けたのです。
護国寺を強力にバックアップした桂昌院は、神仏にはたいへん関心がある女性でした。桂昌院の礼拝を受けた神仏の一つに成田不動があります。護国寺の場合と同じく、成田山の歴史を振り返ってみると、桂昌院がそこで果たした役割は無視できないものがあります。
成田不動は成田山の本尊ですが、この元禄の頃までは、現代とは違って、成田山は全国にその名を知られたお寺ではありませんでした。この頃、成田山は借財の返済にも苦しんでいましたが、その窮状を打開するため、江戸ではじめての出開帳をおこないます。
この出開帳は大成功を収め、その収益により借財を返済しますが、成田不動の知名度も全国区のものとなります。桂昌院の礼拝を受けるため、江戸城に入ったのです。元禄16年(1702)7月4日のことでした。
この時、桂昌院は10両を奉納していますが、寄進者の名簿を見ると、諸大名の奥方からの寄進が目に付きます。元禄の江戸出開帳を通じて、成田山は桂昌院つまり大奥だけでなく、諸大名の奥向きからの信頼も得たのです。こうした江戸での営業活動の積み重ねが、初詣の人出ベスト3の地位を獲得する大きな要因となっていくのでした。