しかし、ここで一つ大きな問題がありました。お寺側からの求めに応じて大奥から寄進された葵のブランド品が、あまりに多かったのです。
幕府の側から見ると、葵のブランド品が出回り過ぎると、徳川(将軍)ブランドの価値が下がり兼ねません。少ないからこそ、有り難みが出て、将軍様の御威光も保てるのです。寄進だけなら良いのですが、それを次々と公開展示されると、ブランド価値の低下に直結してしまいます。
一方、お寺の側は、大奥との人脈を強化し、葵のブランド品をもっと寄進してもらおうと画策します。公開展示することで、将軍との由緒をさらにアピールし、経営基盤を強化しようとしたわけです。
そこで監督官庁である寺社奉行は、お寺へのブランド品の寄進、その公開展示を制限しようとします。将軍ブランドの価値の低下を防ごうしたのです。
しかし、お寺にとっては、そうした方針はまさに死活問題でした。ブランド品を拝領できず、持っているブランド品を公開展示できないとなると、まさしく宝の持ち腐れでした。投資した資金も回収できず、経営にも大打撃となるのです。むしろ、もっとブランド品を増やして、将軍との由緒をアピールしたいところでした。
そのため、お寺は大奥への工作を強化します。寺社奉行への運動という正攻法では埒があきませんから、大奥から圧力をかけてもらい、規制対象外として、寺社奉行に公開展示を認めさせていくのです。引き続き、寄進も受けることもできました。もちろん、大奥への運動費も掛かったでしょうが、背に腹は変えられませんでした。
お寺の経営は、大奥と強く結び付くことで成り立っていたのです。その裏では、幕府政治の力学が働いていました。