2007年7月 3日

021001.jpg

護国寺に参詣したのは綱吉や桂昌院だけではありません。大奥から、たくさんの奥女中が参詣してきます。護国寺が大奥との人脈をさらに強めていくのは自然の成り行きです。将軍とその母が厚く帰依していたお寺ですから、諸大名も参詣してきます。江戸っ子も、親分の将軍様が参詣したということを聞けば、参詣したい気持ちが沸き上がってきたことでしょう。

こうして、綱吉の時代から、護国寺は参詣客で大いに賑わうことになりました。となると、門前に参詣客を相手にした商店が立ち並ぶのは、ほとんど法則のようなものです。護国寺門前は、歓楽街として大きく発展を遂げます。大奥は莫大な経済効果ももたらしたのでした。

現在、護国寺周辺は文京区音羽と言いますが、音羽という街の起源をたどって行くと、大奥にたどり着きます。音羽という町名の由来には諸説ありますが、大奥にゆかりがあるという説もあるのです。

護国寺門前の地所は、何人かの奥女中に与えられたと言います。地主である彼女たちは、その地所を貸すことで地代を懐に入れていました。役得のようなものですが、その一人の名前が音羽と言いました。このため、門前町が音羽町と呼ばれるようになったと言うのです。

音羽が拝領した地所には次々と町屋が建設され、参詣者相手の商売をしようという者たちが入居していきます。護国寺の賑わいに比例して、町屋も増えて、護国寺門前(音羽町)は歓楽街と化していくのです。

護国寺門前町の地主が奥女中とすれば、大奥が造ったお寺の門前の商売からあがってくる収益が、再び大奥に流れ込んでいったということになります。護国寺への参詣者が増え、その門前が賑わうほど、奥女中の実入りも増えるということになるでしょう。

寛永寺や増上寺だけでなく、大奥なくして現在の護国寺もありませんでした。巨大なお寺そして門前町を誕生させた大奥の力は絶大でした。将軍様を後ろ盾にした力でもありましたが、この事実は、江戸の仏教界に大きな衝撃を与えたことでしょう。大奥の力を目の当たりにしたお寺は護国寺に続けとばかりに、大奥との接点を何とか持とうと知恵を絞るのです。お寺からは、奥女中の歓心を引こうと、ご利益のあるお守りやお札、珍しい品などが、いろいろなルートを通じて大奥に贈られてくることになるのでした。

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.higan.net/apps/mt-tb.cgi/1619

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)

江戸時代、お寺参りは町人たちのレジャーでした。当時世界一の人口規模を誇った観光都市江戸では、お寺がありとあらゆる工夫を凝らし、現代の広告代理店さながらの参詣客の争奪戦が繰り広げられておりました。江戸研究家の安藤優一郎が語る、お寺にまつわる江戸の人間模様。
→ブログに登場する江戸名所の地図
安藤 優一郎 / 文
1965(昭和40)年千葉県生まれ。歴史家。江戸時代を専門とする。文学博士(早稲田大学)。NHK文化センターなどで生涯学習講座の講師を勤める。著書『徳川将軍家の演出力』『観光都市江戸の誕生』(新潮新書)では寺社の経営戦略を、新刊『江戸城・大奥の秘密』(文春新書)では、大奥とお寺の深いつながりを明らかにした。
→著者公式サイト
→著者ブログ「江戸探訪記」
→著者ブログ「大江戸グルメ日記」
加藤 円正 / イラスト
昭和51年愛媛県生まれ。人口100人ほどの瀬戸内に浮かぶ島にある、お寺の住職。イラストレーション、板目木版を中心に絵を描く。妖怪と時代劇とロックンロールを好む。2005年『怪』(角川書店)「第二回怪大賞」にて京極夏彦氏より妖怪版画で京極賞を受賞。
→イラストレーター公式サイト