
護国寺に参詣したのは綱吉や桂昌院だけではありません。大奥から、たくさんの奥女中が参詣してきます。護国寺が大奥との人脈をさらに強めていくのは自然の成り行きです。将軍とその母が厚く帰依していたお寺ですから、諸大名も参詣してきます。江戸っ子も、親分の将軍様が参詣したということを聞けば、参詣したい気持ちが沸き上がってきたことでしょう。
こうして、綱吉の時代から、護国寺は参詣客で大いに賑わうことになりました。となると、門前に参詣客を相手にした商店が立ち並ぶのは、ほとんど法則のようなものです。護国寺門前は、歓楽街として大きく発展を遂げます。大奥は莫大な経済効果ももたらしたのでした。
現在、護国寺周辺は文京区音羽と言いますが、音羽という街の起源をたどって行くと、大奥にたどり着きます。音羽という町名の由来には諸説ありますが、大奥にゆかりがあるという説もあるのです。
護国寺門前の地所は、何人かの奥女中に与えられたと言います。地主である彼女たちは、その地所を貸すことで地代を懐に入れていました。役得のようなものですが、その一人の名前が音羽と言いました。このため、門前町が音羽町と呼ばれるようになったと言うのです。
音羽が拝領した地所には次々と町屋が建設され、参詣者相手の商売をしようという者たちが入居していきます。護国寺の賑わいに比例して、町屋も増えて、護国寺門前(音羽町)は歓楽街と化していくのです。
護国寺門前町の地主が奥女中とすれば、大奥が造ったお寺の門前の商売からあがってくる収益が、再び大奥に流れ込んでいったということになります。護国寺への参詣者が増え、その門前が賑わうほど、奥女中の実入りも増えるということになるでしょう。
寛永寺や増上寺だけでなく、大奥なくして現在の護国寺もありませんでした。巨大なお寺そして門前町を誕生させた大奥の力は絶大でした。将軍様を後ろ盾にした力でもありましたが、この事実は、江戸の仏教界に大きな衝撃を与えたことでしょう。大奥の力を目の当たりにしたお寺は護国寺に続けとばかりに、大奥との接点を何とか持とうと知恵を絞るのです。お寺からは、奥女中の歓心を引こうと、ご利益のあるお守りやお札、珍しい品などが、いろいろなルートを通じて大奥に贈られてくることになるのでした。