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2007年7月 アーカイブ

2007年7月31日

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お寺が幕府から助成を受ける方法はいろいろですが、大まかに言うと2つに分けられます。1つは金品を給付されたり、拝借することです。もう1つは、募金活動を許可されることでした。

助成を願うのは、堂社の新築・修築などハード面の整備の時です。ベストなのは、幕府の費用で整備してもらうことです。しかし、その恩恵に預かれるのは、寛永寺や増上寺など、将軍と特別の由緒があるお寺に限られていました。将軍のお墓があるわけですから、国家予算で維持されるのは当然と言えます。将軍が檀家であることの強みが、いかんなく発揮されるのです。

普段お寺は、幕府や諸大名から寄進を受けた土地、年貢を免除された土地(除地と呼ばれます)から上がる収穫物や檀家のバックアップなどで、仏事を執り行っていました。しかし、堂社の大修復など、莫大な臨時の出費が予想される際は、それだけでは無理でした。そこで、幕府や大名などの領主からの助成に頼ろうしたわけです。

しかし、国家予算で修繕してもらえるお寺は言うまでもなく、金品を給付されたり、拝借できるのも、ほんのごく一部のお寺に過ぎません。そこでも、優遇されていたのは徳川家と縁故のあったお寺だけでした。総数でみても、100ケ寺ほどに過ぎなかったでしょう。

募金活動とは、お寺が自力で集金することですが、主に2つの方法がありました。1つは勧化、もう1つはご開帳でした。

勧化とは、元々は仏の教えを勧めることですが、転じて、お寺の建立や修復のために人々に勧めて寄付を募る。つまり、金品の寄付を勧める言葉として用いられるようになりました。

ここで言う勧化とは、幕府の許可を受けた勧化のことです。もちろん、幕府の許可を受けなくても、勧化はできました。それを私之勧化、自分勧化と呼びましたが、幕府の許可を受けた勧化の方がはるかに効果があったのです。

2007年7月31日

幕府からのバックアップを期待して、江戸のお寺は大奥工作を熾烈に展開したわけですが、当然ながら、全てのお寺がその恩恵に預かったのではありません。寛永寺や増上寺は将軍様のお墓があるということで、特に優遇されていたお寺でしたが、時代が下るにつれて、この2つのお寺に対してさえ、幕府の財布の紐は堅くなっていきます。

その理由は、もろろん幕府の財政難です。8代将軍吉宗の時は、旗本御家人といった家来たちに支払う給与(お米)にも不足したぐらいでした。どうにもならなくなった吉宗は、幕府の深刻な財政難を諸大名にカミングアウトし、石高1万石につき米100石の献納を命じます。加賀百万石の前田家の場合は、毎年1万石の米を幕府に納めたわけです。

その代り、諸大名が参勤交代で江戸に滞在する期間を1年から半年に縮めました。お殿様たちは、国元で1年、江戸で1年ずつ過ごすことが義務付けられていましたが、江戸での生活はたいへんな出費を伴うものでした。年間予算の半分以上が、江戸での生活費だけに消えていきましたから、お殿様たちにとっては悪い話ではありません。ただ、さすがに将軍様の体面もありますから、10年ほどで献納は中止となりました。その後は従来通り、江戸での1年間の生活が義務付けられています。

この時代、吉宗の享保改革に限らず、改革政治の最大のテーマは財政再建でした。そこでは経費節減が一番のお題目になっていたのですが、歳出カットの波はお寺にも及びます。助成の枠が狭まり、その枠をめぐる競争が激化していくのです。

寺社の監督官庁は寺社奉行所です。寺社奉行所が、お寺からの助成の嘆願を審議し決定しますが、財政難を受けて、なかなか嘆願が認めらません。正攻法では嘆願が受理されないため、お寺は裏工作に奔走することになります。そうした事情が、大奥工作を熾烈なものにしていったわけです。

大奥工作によって、お寺は葵の紋所入りの品の寄進を受けていますが、その品は実は大奥からの寄進でした。ですから、幕府の懐は直接には痛みません。お寺は葵のブランド品を何とかして手に入れようと、大奥に懸命に働き掛けます。それを売りにして集客力を高めることで、その経済効果に期待したわけですが、その争奪戦は次第に過熱していきます。その過熱ぶりにしても、お寺の助成枠を狭めた幕府の切迫した財政事情と無関係ではなかったでしょう。

2007年7月24日

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成田山と並んで初詣でのベスト3に数えられる川崎大師も、大奥との関係が深かったお寺の1つでした。川崎大師は、現在も厄除け大師として知られていますが、11代将軍家斉以後、前・後厄の年に将軍が参詣するお寺として位置付けられます。

川崎大師も江戸出開帳を通じて、知名度をアップさせていくのですが、成田不動と同じく、江戸城に入り、家斉とその御台所茂姫の礼拝を受けています。その折には、厄除けのお守りと御洗米を千体ずつ献上しています。江戸城に入ったこと自体、大きな話題になったでしょうが、この献上品なども、厄除け大師の営業戦略に他なりません。家斉の頃は1000人前後の奥女中がいたと言いますが、良い宣伝になったことでしょう。

大奥からは、毎月のように、奥女中たちの川崎大師参詣がありました。営業戦略の賜物というわけですが、彼女たちにとっても、川崎までの道中は日帰り旅行なようなものでしたから、この上ない楽しみになったことでしょう。

さて、成田山や川崎大師に限らず、お寺が江戸にやってきた際、ご本尊は江戸城や開帳場のお寺(回向院や浅草寺など)だけにいたのではありません。将軍の娘が嫁いだ諸大名の江戸屋敷も回っています。

将軍の娘が諸大名に嫁ぐと、御殿が建設されることになっていました。これを御守殿(ごしゅでん)、御住居(おすまい)と呼びます。東京大学の赤門は、家斉の娘溶姫が加賀藩主前田斉泰に嫁いだ際に、前田家が本郷屋敷内に建設した御殿の門なのですが、江戸にはこうした御殿が、嫁いだ将軍の娘の人数だけありました。御本尊は、その要請に応えてこれらの御殿も回っていったのです。

御殿の主である将軍の娘に仕える奥女中たちは、大奥から出向してきた女性でした。ですから、江戸城に御本尊が入るという情報は、前もってキャッチしていたことでしょう。大奥の奥女中が拝んだとなれば、自分たちも拝みたいということで、争うように誘致するわけです。

お寺にとってみれば、その大名家に足がかりを得るとともに、殿様や家臣たちにも名前を知ってもらえる絶好のチャンスでした。江戸城に入った時と同じく、お守りなどを献上していますが、その時は、賽銭箱も一緒に回っています。お坊さん、御本尊そして賽銭箱まで、赤門をくぐっていたわけです。名も実も掴み取ろうというお寺のしたたかさが、こういう所にも表れています。江戸のお寺は大奥なしに、経営戦略を立てることはできなかったのです。

2007年7月17日

大奥と結び付くことで、のしあがっていったお寺は、江戸のお寺だけではありません。地方のお寺も江戸に出てきて、大奥との結び付きを梃子に、知名度を上げていきます。江戸での出開帳は、寺勢を拡大する上での必須のコンテンツとなっていました。

江戸は全国のお寺が出張して来て、御本尊を開帳するメッカでした。百万都市だけに相当の収益が上げられましたが、その名前を売り込む絶好のチャンスでもありました。開帳中は大奥をはじめ、諸大名の奥向きからも、奥女中たちが参詣に訪れました。そこで目に留まれば、大奥との人脈が得られるわけです。

大奥からの参詣を待つだけでなく、その求めに応じて、大奥に入ることもありました。その時は、ご本尊だけでなく、お坊さんたちも入ることになります。大奥と言っても、全ての部屋が男子禁制ではありませんから、どこかの部屋に安置され、彼女たちの礼拝を受けたのです。

護国寺を強力にバックアップした桂昌院は、神仏にはたいへん関心がある女性でした。桂昌院の礼拝を受けた神仏の一つに成田不動があります。護国寺の場合と同じく、成田山の歴史を振り返ってみると、桂昌院がそこで果たした役割は無視できないものがあります。

成田不動は成田山の本尊ですが、この元禄の頃までは、現代とは違って、成田山は全国にその名を知られたお寺ではありませんでした。この頃、成田山は借財の返済にも苦しんでいましたが、その窮状を打開するため、江戸ではじめての出開帳をおこないます。

この出開帳は大成功を収め、その収益により借財を返済しますが、成田不動の知名度も全国区のものとなります。桂昌院の礼拝を受けるため、江戸城に入ったのです。元禄16年(1702)7月4日のことでした。

この時、桂昌院は10両を奉納していますが、寄進者の名簿を見ると、諸大名の奥方からの寄進が目に付きます。元禄の江戸出開帳を通じて、成田山は桂昌院つまり大奥だけでなく、諸大名の奥向きからの信頼も得たのです。こうした江戸での営業活動の積み重ねが、初詣の人出ベスト3の地位を獲得する大きな要因となっていくのでした。

2007年7月17日

しかし、ここで一つ大きな問題がありました。お寺側からの求めに応じて大奥から寄進された葵のブランド品が、あまりに多かったのです。

幕府の側から見ると、葵のブランド品が出回り過ぎると、徳川(将軍)ブランドの価値が下がり兼ねません。少ないからこそ、有り難みが出て、将軍様の御威光も保てるのです。寄進だけなら良いのですが、それを次々と公開展示されると、ブランド価値の低下に直結してしまいます。

一方、お寺の側は、大奥との人脈を強化し、葵のブランド品をもっと寄進してもらおうと画策します。公開展示することで、将軍との由緒をさらにアピールし、経営基盤を強化しようとしたわけです。

そこで監督官庁である寺社奉行は、お寺へのブランド品の寄進、その公開展示を制限しようとします。将軍ブランドの価値の低下を防ごうしたのです。

しかし、お寺にとっては、そうした方針はまさに死活問題でした。ブランド品を拝領できず、持っているブランド品を公開展示できないとなると、まさしく宝の持ち腐れでした。投資した資金も回収できず、経営にも大打撃となるのです。むしろ、もっとブランド品を増やして、将軍との由緒をアピールしたいところでした。

そのため、お寺は大奥への工作を強化します。寺社奉行への運動という正攻法では埒があきませんから、大奥から圧力をかけてもらい、規制対象外として、寺社奉行に公開展示を認めさせていくのです。引き続き、寄進も受けることもできました。もちろん、大奥への運動費も掛かったでしょうが、背に腹は変えられませんでした。

お寺の経営は、大奥と強く結び付くことで成り立っていたのです。その裏では、幕府政治の力学が働いていました。

2007年7月10日

お寺にとって、大奥との関係はたいへん大事でした。大奥対策は、経営戦略にしっかりと組み込まれていて、奥女中が参詣してくれば、お寺を挙げての至れり尽くせりの接待となります。

大奥からの参詣と言っても、将軍の正室・側室・娘(姫君)自身が参詣することはあまりありません。仕える奥女中が代理としてやって来るのです。当の奥女中にとっては、城の外に出られる貴重なチャンスでした。

将軍の正室・側室からの寄進と言っても、お寺が当人に直接アタックした結果ではありません。彼女たちには、たくさんの奥女中が取り巻いていましたが、そのうち誰か一人とでも接点を持ち、信任を得ることができれば、お寺としては大成功です。その奥女中を窓口に、主人である正(側)室・姫君が帰依してもらえれば、葵の紋所入り品の寄進というレールが引かれるわけなのです。

大奥の中で、そのお寺が話題になれば、どんどん口コミで知名度が上がります。大奥で話題になると、御殿の中奥・表向と、幕府官僚の詰所にその情報が広がっていきます。

本丸御殿とは、政府の中枢機能が集中している首相官邸と官庁街が一緒になったような空間です。そこで話題になれば、江戸全体に広がっていきます。江戸には諸大名の屋敷がありますから、そのスピードは現代とは比較になりませんが、全国に伝わっていくことにもなるでしょう。御殿特に大奥の話題となると、みんな強い関心を示しましたが、その辺りの事情は現代も同じでしょう。

お寺の側も、寄進されたという事実は自分のブランド価値を上げるものですから、積極的にこの情報を流します。それを売りにしたのです。

この時代は、コミニュケーション・ツールは、基本的に口コミしかありません。瓦版など刷り物というメディアもありますが、イベントの集客は、口コミに頼るしかありませんでした。ですが、お祭りやご開帳などの様子を描いた錦絵を見ると、本当に賑わっていますし、リアルタイムで書かれた文献からも、その事実は確認できます。逆に言うと、口コミだけでも、それだけの集客力があるということなのでしょう。口コミで、お寺は知名度を上げていったのです。

2007年7月10日

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お寺としては、大奥を通じて将軍を動かし、参詣してもらうのがベストでした。しかし、将軍は1人ですから、おのづから参詣するお寺は限られてしまいます。超売り手市場ですから、将軍をめぐる争奪戦は激しかったようです。

代参という方法もありました。将軍の代理として参詣することですが、将軍の御台所の代理として参詣する方法もありました。将軍の代参は老中などの閣僚クラスがつとめましたが、御台所の代参は大奥の役目ですし、大奥の判断だけでできました。御台所は将軍の正室ですが、側室の代理としての参詣も可能ですし、将軍の娘の代理として奥女中が参詣して来るという形もありました。

しかし、そうは言っても参詣してもらいたいお寺の数は多いわけですから、超売り手市場であることに変わりはありません。そこで、お寺の多くは将軍の象徴である葵の紋所が入った品の寄進を求めました。将軍その人、家族が参詣してもらうのが難しいので、その分身である葵の紋所を手に入れようとしたわけです。将軍から帰依を受けている証明書の交付を願い出たと言えるでしょう。

葵の紋所入りの品としては、仏事や開帳の時に用いる幕、あるいは戸帳、水引、提灯、袈裟、本尊に着用させる衣服などがあります。お寺の側は、これらの品をどのように活用したのでしょうか。

貴重品として、人に見せなかったのではありません。むしろ、その逆です。

葵の紋所入りの品を拝領するのは、本当に大変なことだったようです。東京のお寺には、葵の紋所が入った品が現在数多く残されています。これらのブランド品は、お寺の営業努力の賜物に他ならないのです。

ですから、大切に保管して外に出さないままでは、苦労して手に入れた将軍の御宝の持ち腐れです。投資した資金は回収し、収益を上げる必要があります。そのため、仏事や開帳といったイベント時に、それらの品を積極的に公開展示し、将軍との由緒を広くアピールしたのです。お寺のメディア戦略の一つです。

実態は、将軍様本人からの寄進ではなく、大奥から寄進されたものでした。将軍の正室・側室、あるいは娘にせよ、将軍の家族なのですから、葵の紋所入り品を寄進することは可能なのです。

ですが、実態はどうあれ、寄進とは信仰の証であることは言うまでもありません。葵の紋所入りの品が展示されていれば、そのお寺が将軍から深い帰依を受けているというイメージを、見る者や聞く者にインプットさせることができます。将軍家御用達というわけではありませんが、ブランド価値もあがりますし、それを売りにして参詣客を集めることができました。差別化のツールとして葵の紋所をフルに活用するイメージ戦略を展開し、経営基盤を強化していったのです。

2007年7月 3日

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護国寺に参詣したのは綱吉や桂昌院だけではありません。大奥から、たくさんの奥女中が参詣してきます。護国寺が大奥との人脈をさらに強めていくのは自然の成り行きです。将軍とその母が厚く帰依していたお寺ですから、諸大名も参詣してきます。江戸っ子も、親分の将軍様が参詣したということを聞けば、参詣したい気持ちが沸き上がってきたことでしょう。

こうして、綱吉の時代から、護国寺は参詣客で大いに賑わうことになりました。となると、門前に参詣客を相手にした商店が立ち並ぶのは、ほとんど法則のようなものです。護国寺門前は、歓楽街として大きく発展を遂げます。大奥は莫大な経済効果ももたらしたのでした。

現在、護国寺周辺は文京区音羽と言いますが、音羽という街の起源をたどって行くと、大奥にたどり着きます。音羽という町名の由来には諸説ありますが、大奥にゆかりがあるという説もあるのです。

護国寺門前の地所は、何人かの奥女中に与えられたと言います。地主である彼女たちは、その地所を貸すことで地代を懐に入れていました。役得のようなものですが、その一人の名前が音羽と言いました。このため、門前町が音羽町と呼ばれるようになったと言うのです。

音羽が拝領した地所には次々と町屋が建設され、参詣者相手の商売をしようという者たちが入居していきます。護国寺の賑わいに比例して、町屋も増えて、護国寺門前(音羽町)は歓楽街と化していくのです。

護国寺門前町の地主が奥女中とすれば、大奥が造ったお寺の門前の商売からあがってくる収益が、再び大奥に流れ込んでいったということになります。護国寺への参詣者が増え、その門前が賑わうほど、奥女中の実入りも増えるということになるでしょう。

寛永寺や増上寺だけでなく、大奥なくして現在の護国寺もありませんでした。巨大なお寺そして門前町を誕生させた大奥の力は絶大でした。将軍様を後ろ盾にした力でもありましたが、この事実は、江戸の仏教界に大きな衝撃を与えたことでしょう。大奥の力を目の当たりにしたお寺は護国寺に続けとばかりに、大奥との接点を何とか持とうと知恵を絞るのです。お寺からは、奥女中の歓心を引こうと、ご利益のあるお守りやお札、珍しい品などが、いろいろなルートを通じて大奥に贈られてくることになるのでした。

2007年7月 3日

東京には、大奥との由緒で建立されたお寺がたくさんあります。

徳川家康の生母・於大の方は、法名を伝通院と言います。於大の方は、大奥とは直接関係がありませんが、その菩提を弔うお寺が文京区小石川にあります。寺名は、法名から伝通院と名付けられました。伝通院には、あの有名な千姫、弟にあたる家光の御台所(鷹司孝子)のお墓もあり、幕府から厚い保護を受けていました。

大奥を創り上げた家光の乳母春日局は、法名を麟祥院と言いました。そのため、春日局が開基となって創建したお寺の名前は麟祥院ということになりました。湯島天神の近くにありますが、その前を走る春日通りは、この春日局にちなんで付けられました。

大奥とのつながりにより創建され、幕府から厚く保護されたお寺は他にもあります。なかでも、護国寺はそのシンボルのようなお寺でした。

偶然にも、護国寺は伝通院・麟祥院と同じく、東京都文京区にあります。東京の地下鉄の駅のなかで、お寺の名前が駅名となっているのは、護国寺だけでしょう。東高円寺、新高円寺という駅名もありますが、高円寺そのままではありませんので、護国寺が唯一ということになります。

護国寺は真言宗豊山派のお寺ですが、開山は亮賢というお坊さんです。元々は、群馬県の護国寺というお寺の住職でした。正保3年(1646)に、将軍家光の側室だったお玉(後の桂昌院)は綱吉を産みますが、亮賢の祈祷により、男の子を授かったと言われています。そのため、お玉(家光に死別した後、桂昌院と名乗ります)は亮賢に深く帰依していましたが、延宝8年(1680)に、綱吉が5代将軍となります。

本来、綱吉は将軍になれる立場にはありませんでした。ところが、4代将軍家綱に子供がなく、家綱が死去する前に、綱吉の兄・綱重(6代将軍家宣の父)がすでに死去していたため、はからずも将軍となりました。

綱吉が将軍となると、桂昌院は亮賢のために幕府を動かし、現在の護国寺の地を用意し、亮賢を開山とするお寺・護国寺を創建しました。桂昌院は綱吉と一緒に、何度となく参詣しています。国家予算によって境内の堂社が整備されるなど、桂昌院と綱吉の強力のバックアップを受けて、護国寺は巨大化していきます。護国寺3世の快世は、ついに大僧正にまで上ります。

大奥の最大実力者桂昌院の信頼を勝ち取って、幕府のバックアップを受けることが、どんなに大きかったかを、護国寺の成り立ちは教えてくれるのです。まさしく、護国寺は大奥が作り出したお寺なのでした。

江戸時代、お寺参りは町人たちのレジャーでした。当時世界一の人口規模を誇った観光都市江戸では、お寺がありとあらゆる工夫を凝らし、現代の広告代理店さながらの参詣客の争奪戦が繰り広げられておりました。江戸研究家の安藤優一郎が語る、お寺にまつわる江戸の人間模様。
→ブログに登場する江戸名所の地図
安藤 優一郎 / 文
1965(昭和40)年千葉県生まれ。歴史家。江戸時代を専門とする。文学博士(早稲田大学)。NHK文化センターなどで生涯学習講座の講師を勤める。著書『徳川将軍家の演出力』『観光都市江戸の誕生』(新潮新書)では寺社の経営戦略を、新刊『江戸城・大奥の秘密』(文春新書)では、大奥とお寺の深いつながりを明らかにした。
→著者公式サイト
→著者ブログ「江戸探訪記」
→著者ブログ「大江戸グルメ日記」
加藤 円正 / イラスト
昭和51年愛媛県生まれ。人口100人ほどの瀬戸内に浮かぶ島にある、お寺の住職。イラストレーション、板目木版を中心に絵を描く。妖怪と時代劇とロックンロールを好む。2005年『怪』(角川書店)「第二回怪大賞」にて京極夏彦氏より妖怪版画で京極賞を受賞。
→イラストレーター公式サイト