2007年6月19日

将軍様が死去すると、どのお寺に葬られるのでしょうか。

徳川家の宗旨は浄土宗です。家康は日光山に葬られましたが、2代将軍秀忠は芝の増上寺に葬られました。増上寺が将軍の菩提寺・檀那寺に指定されたわけです。歴代の将軍様は増上寺で葬儀が執り行われ、霊廟が建立されるはずでした。

ところが、3代将軍家光は天台宗の僧侶天海を厚く信頼していました。天海のために上野に造ったお寺が、寛永寺ですが、そのモデルは比叡山延暦寺でした。

伝教大師最澄は京の鬼門(北東の方角)に比叡山延暦寺を創建し、京都を鎮護する役割を担わせたわけですが、天海は江戸城の鬼門にあたる上野のお山に、延暦寺にならって寛永寺の建立を願い、許されました。山号は東の比叡山ということで、東叡山。寺号は、創建時の元号が寛永でしたので、寛永寺となりました。延暦寺創建時の元号が延暦であったことにならったものです。

このため、将軍の葬儀も菩提寺である増上寺でおこなわれるはずでしたが、家光は寛永寺を指名し、その後、日光に葬られました。日光山だけでなく、寛永寺にも家光の霊廟が建立されています。そして、家光の息子である4代将軍家綱、5代将軍綱吉も、父と同じく寛永寺で葬儀が行われ、霊廟が建立されました。

これに危機感を持ったのが、増上寺です。幕府に強力に働きかけた結果、6代将軍家宣は増上寺で葬儀が執り行われ、葬られました。7代将軍家継も増上寺に葬られましたが、今度は寛永寺が巻き返しをはかり、暴れん坊将軍の8代吉宗は寛永寺に葬られました。吉宗自身も、寛永寺に葬られることを望んだようです。その後は、両寺のメンツを立てる形で交互に葬られました。9代家重は増上寺、10代家治は寛永寺に霊廟が建立されます。

しかし、必ずしも順番が守られたわけではありません。11代家斉は順番から言うと、増上寺のはずでしたが、蓋をあけてみると、寛永寺でした。寛永寺が大奥に強力に働きかけた結果のようです。12代家慶は増上寺に葬られましたが、その裏には寛永寺との激しい争いがあったのでしょう。

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江戸時代、お寺参りは町人たちのレジャーでした。当時世界一の人口規模を誇った観光都市江戸では、お寺がありとあらゆる工夫を凝らし、現代の広告代理店さながらの参詣客の争奪戦が繰り広げられておりました。江戸研究家の安藤優一郎が語る、お寺にまつわる江戸の人間模様。
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安藤 優一郎 / 文
1965(昭和40)年千葉県生まれ。歴史家。江戸時代を専門とする。文学博士(早稲田大学)。NHK文化センターなどで生涯学習講座の講師を勤める。著書『徳川将軍家の演出力』『観光都市江戸の誕生』(新潮新書)では寺社の経営戦略を、新刊『江戸城・大奥の秘密』(文春新書)では、大奥とお寺の深いつながりを明らかにした。
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加藤 円正 / イラスト
昭和51年愛媛県生まれ。人口100人ほどの瀬戸内に浮かぶ島にある、お寺の住職。イラストレーション、板目木版を中心に絵を描く。妖怪と時代劇とロックンロールを好む。2005年『怪』(角川書店)「第二回怪大賞」にて京極夏彦氏より妖怪版画で京極賞を受賞。
→イラストレーター公式サイト