将軍様が死去すると、どのお寺に葬られるのでしょうか。
徳川家の宗旨は浄土宗です。家康は日光山に葬られましたが、2代将軍秀忠は芝の増上寺に葬られました。増上寺が将軍の菩提寺・檀那寺に指定されたわけです。歴代の将軍様は増上寺で葬儀が執り行われ、霊廟が建立されるはずでした。
ところが、3代将軍家光は天台宗の僧侶天海を厚く信頼していました。天海のために上野に造ったお寺が、寛永寺ですが、そのモデルは比叡山延暦寺でした。
伝教大師最澄は京の鬼門(北東の方角)に比叡山延暦寺を創建し、京都を鎮護する役割を担わせたわけですが、天海は江戸城の鬼門にあたる上野のお山に、延暦寺にならって寛永寺の建立を願い、許されました。山号は東の比叡山ということで、東叡山。寺号は、創建時の元号が寛永でしたので、寛永寺となりました。延暦寺創建時の元号が延暦であったことにならったものです。
このため、将軍の葬儀も菩提寺である増上寺でおこなわれるはずでしたが、家光は寛永寺を指名し、その後、日光に葬られました。日光山だけでなく、寛永寺にも家光の霊廟が建立されています。そして、家光の息子である4代将軍家綱、5代将軍綱吉も、父と同じく寛永寺で葬儀が行われ、霊廟が建立されました。
これに危機感を持ったのが、増上寺です。幕府に強力に働きかけた結果、6代将軍家宣は増上寺で葬儀が執り行われ、葬られました。7代将軍家継も増上寺に葬られましたが、今度は寛永寺が巻き返しをはかり、暴れん坊将軍の8代吉宗は寛永寺に葬られました。吉宗自身も、寛永寺に葬られることを望んだようです。その後は、両寺のメンツを立てる形で交互に葬られました。9代家重は増上寺、10代家治は寛永寺に霊廟が建立されます。
しかし、必ずしも順番が守られたわけではありません。11代家斉は順番から言うと、増上寺のはずでしたが、蓋をあけてみると、寛永寺でした。寛永寺が大奥に強力に働きかけた結果のようです。12代家慶は増上寺に葬られましたが、その裏には寛永寺との激しい争いがあったのでしょう。