2007年6月 5日

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大奥は、江戸城の本丸御殿の中でも一番奥にありました。本丸御殿は現在、皇居東御苑の一部となっていますが、御殿の建坪は1万1300坪ほどあります。巨大な空間です。

御殿は3つの空間から構成されていました。幕府官僚が詰めて政務を執る表向、将軍が日常生活を送る中奥、そして将軍の寝所である大奥の3つです。そのうち大奥は約6300坪もあり、御殿の過半を占めている計算になります。

その後ろに天守閣がありましたが、明暦3年(1657)の明暦の大火で焼け落ちてしまった後は再建されないままでした。ですから、以後江戸城には天守閣は存在しないことになります。時代劇では、江戸城のシーンでお約束のように天守閣が映りますが、実際に天守閣がそびえ立っていたのは、江戸時代最初の50年ほどに過ぎませんでした。

中奥には将軍の身の周りの世話をする側近が多数詰めていましたが、大奥に入れる幕府官僚(もちろん男性ですが)は厳しく制限されていました。テレビにも登場する側用人ぐらいです。

ただ、大奥の経理を執る役人や警備の役人が詰めている空間もありました。これを、御広敷(おひろしき)と呼びます。この空間だけは例外でした。

俗に、大奥には3000人もの女性が住んでいたと書かれることが良くありますが、そんなに多くはありません。一番多い時で、1000人ほどでした。

奥女中とは、いわば幕府の女性官僚のような存在でした。将軍の寝所を独占しているわけですから、その威勢はたいへんなものでした。トップクラスの奥女中となると、幕府の閣僚人事までも左右する力を持っています。立身出世したいサムライたちは、争うように賄賂を奥女中に贈って、念願のポストを手に入れるのでした。

奥女中のトップは、御年寄でした。その威勢は老中つまり現在の大臣と同じとされたほどでした。生島新五郎と密通したと伝えられる絵島が、これに当たります。

大奥のドラマをテレビで見ていると、必ず登場してくるのが、御中臈です。御中臈とは、将軍の身の回りの世話をする女性を指しますが、将軍付の御中臈から、将軍のお手が付いて側室となりました。御中臈は高級官僚なのですが、それよりランクが下がる奥女中であっても、将軍の目に留まって、お手が付くと御中臈に昇進するシステムになっていました。

 将軍のご寵愛をめぐるバトルが、大奥ドラマのテーマとしてよく取り上げられますので、自然と、御中臈という言葉は耳に残ってしまうことになります。

さて、奥女中のなかに、「御坊主」と呼ばれた女性がいました。名前のとおり、剃髪姿でした。この御坊主も大奥の官僚なのですが、大奥に限らず、江戸城内には剃髪姿の官僚は大勢いたのです。

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江戸時代、お寺参りは町人たちのレジャーでした。当時世界一の人口規模を誇った観光都市江戸では、お寺がありとあらゆる工夫を凝らし、現代の広告代理店さながらの参詣客の争奪戦が繰り広げられておりました。江戸研究家の安藤優一郎が語る、お寺にまつわる江戸の人間模様。
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安藤 優一郎 / 文
1965(昭和40)年千葉県生まれ。歴史家。江戸時代を専門とする。文学博士(早稲田大学)。NHK文化センターなどで生涯学習講座の講師を勤める。著書『徳川将軍家の演出力』『観光都市江戸の誕生』(新潮新書)では寺社の経営戦略を、新刊『江戸城・大奥の秘密』(文春新書)では、大奥とお寺の深いつながりを明らかにした。
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加藤 円正 / イラスト
昭和51年愛媛県生まれ。人口100人ほどの瀬戸内に浮かぶ島にある、お寺の住職。イラストレーション、板目木版を中心に絵を描く。妖怪と時代劇とロックンロールを好む。2005年『怪』(角川書店)「第二回怪大賞」にて京極夏彦氏より妖怪版画で京極賞を受賞。
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