2007年6月19日

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寛永寺と増上寺は、将軍の葬儀を自分の所で執り行い、霊廟が建立されることを強く望んでいました。将軍が檀家となって霊廟が建立されるかどうかで、その経営が大きく左右されてしまうのです。将軍が檀家となると、お寺に入ってくるお金のケタが違うわけです。

将軍の葬儀とは、幕府の威信をかけた国家的な行事ですから、その費用は莫大なものでした。もちろん、葬儀の費用だけでなく、霊廟の建立費も国家予算から支出されました。菩提を弔う回向料も国家財政から支出されました。

回向料を寄進したのは幕府だけでありません。三百諸侯と称された諸大名も、回向料を寄進しなければいけませんでした。幕府の方から金額が指定されていて、60万石以上の大名は白銀30枚、25万石以上60万石未満の大名は白銀20枚というような規定でした。

石高つまり経済力に応じて、回向料は決められていました。これは公定額であり、現実はこれだけの出費では済まなかったでしょう。それだけ、お寺にはお金が落ちるわけで、葬儀の時だけでも莫大なお金が落ちている様子が分かります。

葬られた将軍の祥月命日には、当代の将軍が参詣することになっていました。これも国家的行事ですが、その時に詣でるのは将軍だけではありません。江戸にいる大名はすべて、その日は詣でなければいけませんでした。国家への義務なのです。

その際には、当然のことながら、相応の金品を包みます。このように、将軍の霊廟が建立されると、莫大なお金が落ち続けるわけですから、寛永寺や増上寺が争奪戦に走るのは当然のことでしょう。

どちらのお寺で将軍の葬儀をおこない、霊廟を建立するかを決めるのは老中の会議です。閣議のようなものですが、大奥の意見は無視できませんでした。大奥は将軍の家庭であり、家族の意見は無視できないというわけです。

大奥とは、将軍が生まれ育てられ、そして息を引き取る場所です。葬儀まで、亡骸は大奥に安置されています。このことからも、大奥の意見が霊廟選定に影響力を持っていたことは明らかでしょう。いきおい、寛永寺や増上寺は大奥工作に走るのです。

それには普段から大奥のご機嫌を取っておく必要がありました。こうして、大奥と寛永寺・増上寺の関係はたいへん深いものとなっていきます。お寺からは、時候の挨拶などの形を取ることで様々な品物が贈られます。そして、奥女中たちが参詣した折りには、心尽くしのおもてなしをすることになるわけです。

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江戸時代、お寺参りは町人たちのレジャーでした。当時世界一の人口規模を誇った観光都市江戸では、お寺がありとあらゆる工夫を凝らし、現代の広告代理店さながらの参詣客の争奪戦が繰り広げられておりました。江戸研究家の安藤優一郎が語る、お寺にまつわる江戸の人間模様。
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安藤 優一郎 / 文
1965(昭和40)年千葉県生まれ。歴史家。江戸時代を専門とする。文学博士(早稲田大学)。NHK文化センターなどで生涯学習講座の講師を勤める。著書『徳川将軍家の演出力』『観光都市江戸の誕生』(新潮新書)では寺社の経営戦略を、新刊『江戸城・大奥の秘密』(文春新書)では、大奥とお寺の深いつながりを明らかにした。
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加藤 円正 / イラスト
昭和51年愛媛県生まれ。人口100人ほどの瀬戸内に浮かぶ島にある、お寺の住職。イラストレーション、板目木版を中心に絵を描く。妖怪と時代劇とロックンロールを好む。2005年『怪』(角川書店)「第二回怪大賞」にて京極夏彦氏より妖怪版画で京極賞を受賞。
→イラストレーター公式サイト