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2007年6月 アーカイブ

2007年6月26日

寛永寺・増上寺は大奥のバックアップを受けることで、経営基盤を維持強化していきました。大奥(将軍様)なくして、寛永寺・増上寺なしと言っても、決して言い過ぎではないでしょう。

両寺とも戦火に遭って、江戸以来の堂社はかなり失われましたが、それでも現存の建造物は、当時の将軍家菩提寺としての偉容を今に伝えてくれます。その建築費・維持費・修築費のすべてが国家予算で賄われたのではありませんが、かなりの割合を占めていることは確かです。それに、将軍の菩提寺の修築となれば、諸大名もスルーすることはできません。当然、相応の金品は寄進するでしょう。それが将軍への忠誠心の証にもなるのです。

将軍と由緒を持つことの強みがいかんなく発揮されているというわけですが、となると、当然ながら、他のお寺も将軍との結び付きをはかります。将軍が参詣してくれれば、将軍の代理として誰かが参詣してくれるだけでも、あるいは、拝領品を賜るという事実だけでも、お寺の格が高まるのです。

お寺に限らず、この時代は武士にしても商人にしても、将軍とのつながりを持つことで、自分のステータスを高めようとします。徳川将軍家の象徴である葵の紋所は、天下御免の最強ブランドに他なりませんでした。商人などは、将軍家御用達になることで信用を増し、経営を拡大させました。徳川ブランドに密着して、ビジネスを展開したのです。

お寺の場合でみると、それは結局奉納金の額に跳ね返ってくるのでしょう。将軍が参詣して寺格がアップすれば、今までの額では済まなくなるでしょうし、お寺としては資金力アップの絶好のチャンスでもありました。

将軍が参詣したという評判により、新たな信者を獲得することもできます。金品の奉納者の数も、その額も急上昇していくというわけです。一般の参詣客が増えるのはもちろんです。将軍との由緒がお寺の由緒に加わることで、自分のブランド価値が上昇し、経営基盤も強化されるというシステムになっていました。

もちろん、ライバルは多いわけですし、そう簡単に将軍や幕府の有力者と接点を持つことはできません。ここで注目されたのが、大奥なのです。何かの機会を捉えて奥女中の歓心をつかめば、そこから大奥への足がかりができます。大奥への足がかりができれば、将軍との距離が格段に近くなります。その口利きにより、監督官庁(寺社奉行)への工作も有利です。大奥との人脈があること自体が、寺社奉行に限らず、幕府有力者への無言の圧力となるわけです。

そのため、いかにして大奥との人脈を作るかに、どのお寺も知恵を絞ることになります。いざと言う時、大奥からの口利きが不可能を可能にした事例は数知れずあります。こうして、お寺の営業戦略上、大奥対策は欠かせないものになっていきます。

2007年6月26日

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将軍の菩提寺である寛永寺・増上寺は、江戸のお寺の中では別格でした。菩提寺ですから、黙っていても、大奥から歴代将軍の菩提を弔う代参の使者がやって来るわけですが、それ以外にも、将軍や御台所が病気に掛かった時などは、その平癒の祈祷を依頼するため、奥女中が出向いてきます。菩提寺であるだけでなく、将軍の祈祷寺でもありましたが、その際には、当然ながら手ぶらでやって来るわけではありません。

そのほか、菩提寺・祈祷寺であることのメリットは何でしょう。例えば、建物の修復をする時に、幕府から修復費が支給されています。その理由は菩提寺、つまり将軍との由緒を持っているからに他なりません。そもそも、霊廟があるわけですから、その維持・管理費は幕府から定期的に支給されています。修復はもちろんです。

菩提寺であるがゆえに、寛永寺・増上寺は特別待遇を受けており、手厚く保護されていたのですが、それに甘んじていたのではありません。普段から奥女中の歓心を勤めるよう、日々営業努力を重ねていました。そうした積み重ねが、いざと言う時の修復費などの金額に、モロに跳ね返ってきます。当代将軍が死去した時の霊廟が自寺に建立されるかどうかの大きな要因にもなります。

お寺の監督官庁は寺社奉行です。修復費をはじめ、神社仏閣に対する補助金額を決定する官庁ですが、寛永寺・増上寺に限らず、お寺が修復費の支給などを寺社奉行に願う裏では、大奥への根回しも並行しておこなっています。

大奥という鶴の一声で、通りそうにもない案件が通ってしまうこともありましたし、その金額の上積みも可能でした。そうした実例はたくさんあります。大奥は閣僚人事まで左右するほどの政治力を持っていましたから、寺社奉行がその圧力を受けて通してしまうのです。

特に将軍の菩提寺である寛永寺・増上寺に顕著なのですが、お寺の経営基盤は、お寺の家計は大奥(幕府)が握っていたとも言えるのです。

2007年6月19日

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寛永寺と増上寺は、将軍の葬儀を自分の所で執り行い、霊廟が建立されることを強く望んでいました。将軍が檀家となって霊廟が建立されるかどうかで、その経営が大きく左右されてしまうのです。将軍が檀家となると、お寺に入ってくるお金のケタが違うわけです。

将軍の葬儀とは、幕府の威信をかけた国家的な行事ですから、その費用は莫大なものでした。もちろん、葬儀の費用だけでなく、霊廟の建立費も国家予算から支出されました。菩提を弔う回向料も国家財政から支出されました。

回向料を寄進したのは幕府だけでありません。三百諸侯と称された諸大名も、回向料を寄進しなければいけませんでした。幕府の方から金額が指定されていて、60万石以上の大名は白銀30枚、25万石以上60万石未満の大名は白銀20枚というような規定でした。

石高つまり経済力に応じて、回向料は決められていました。これは公定額であり、現実はこれだけの出費では済まなかったでしょう。それだけ、お寺にはお金が落ちるわけで、葬儀の時だけでも莫大なお金が落ちている様子が分かります。

葬られた将軍の祥月命日には、当代の将軍が参詣することになっていました。これも国家的行事ですが、その時に詣でるのは将軍だけではありません。江戸にいる大名はすべて、その日は詣でなければいけませんでした。国家への義務なのです。

その際には、当然のことながら、相応の金品を包みます。このように、将軍の霊廟が建立されると、莫大なお金が落ち続けるわけですから、寛永寺や増上寺が争奪戦に走るのは当然のことでしょう。

どちらのお寺で将軍の葬儀をおこない、霊廟を建立するかを決めるのは老中の会議です。閣議のようなものですが、大奥の意見は無視できませんでした。大奥は将軍の家庭であり、家族の意見は無視できないというわけです。

大奥とは、将軍が生まれ育てられ、そして息を引き取る場所です。葬儀まで、亡骸は大奥に安置されています。このことからも、大奥の意見が霊廟選定に影響力を持っていたことは明らかでしょう。いきおい、寛永寺や増上寺は大奥工作に走るのです。

それには普段から大奥のご機嫌を取っておく必要がありました。こうして、大奥と寛永寺・増上寺の関係はたいへん深いものとなっていきます。お寺からは、時候の挨拶などの形を取ることで様々な品物が贈られます。そして、奥女中たちが参詣した折りには、心尽くしのおもてなしをすることになるわけです。

2007年6月19日

将軍様が死去すると、どのお寺に葬られるのでしょうか。

徳川家の宗旨は浄土宗です。家康は日光山に葬られましたが、2代将軍秀忠は芝の増上寺に葬られました。増上寺が将軍の菩提寺・檀那寺に指定されたわけです。歴代の将軍様は増上寺で葬儀が執り行われ、霊廟が建立されるはずでした。

ところが、3代将軍家光は天台宗の僧侶天海を厚く信頼していました。天海のために上野に造ったお寺が、寛永寺ですが、そのモデルは比叡山延暦寺でした。

伝教大師最澄は京の鬼門(北東の方角)に比叡山延暦寺を創建し、京都を鎮護する役割を担わせたわけですが、天海は江戸城の鬼門にあたる上野のお山に、延暦寺にならって寛永寺の建立を願い、許されました。山号は東の比叡山ということで、東叡山。寺号は、創建時の元号が寛永でしたので、寛永寺となりました。延暦寺創建時の元号が延暦であったことにならったものです。

このため、将軍の葬儀も菩提寺である増上寺でおこなわれるはずでしたが、家光は寛永寺を指名し、その後、日光に葬られました。日光山だけでなく、寛永寺にも家光の霊廟が建立されています。そして、家光の息子である4代将軍家綱、5代将軍綱吉も、父と同じく寛永寺で葬儀が行われ、霊廟が建立されました。

これに危機感を持ったのが、増上寺です。幕府に強力に働きかけた結果、6代将軍家宣は増上寺で葬儀が執り行われ、葬られました。7代将軍家継も増上寺に葬られましたが、今度は寛永寺が巻き返しをはかり、暴れん坊将軍の8代吉宗は寛永寺に葬られました。吉宗自身も、寛永寺に葬られることを望んだようです。その後は、両寺のメンツを立てる形で交互に葬られました。9代家重は増上寺、10代家治は寛永寺に霊廟が建立されます。

しかし、必ずしも順番が守られたわけではありません。11代家斉は順番から言うと、増上寺のはずでしたが、蓋をあけてみると、寛永寺でした。寛永寺が大奥に強力に働きかけた結果のようです。12代家慶は増上寺に葬られましたが、その裏には寛永寺との激しい争いがあったのでしょう。

2007年6月12日

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大奥に入れる者は限られていましたが、例外がありました。それは、お医者さんです。江戸城勤務のお医者さんもサムライでしたが、医者にも階級がありました。

上から、典薬頭(てんやくのかみ)、奥医師、表御番医師と続きます。典薬頭は医師のトップで、大名並みの官位を与えられました。法印に叙せられます。

奥医師というのは、将軍のお脈を取ったり、正室である御台所や側室、奥女中たちの診療をおこなうお医者さんです。「お匙」と呼ばれました。奥医師に任命されると、法眼に叙せられました。

法印や法眼に叙せられるということは、たいへん名誉なことでした。法印や法眼とは僧侶の位のことですが、この時代には僧侶だけでなく、医師、そして仏師や絵師にも与えられるものになっていました。

元々は僧侶に与えられた位ですから、法印や法眼になると、頭を丸めなければなりません。ですから、大奥に入るお医者さんは、剃髪姿ということになります。本物のお坊さんは、奥女中からの厚い信頼を受けていたのですが、さすがに大奥の内部には入れなかったようです。

そのほか、少年ならば大奥に入ることができました。少年と言っても、九才までの男の子だけです。

いずれにしても、大奥はこうした例外を除き、男子禁制の空間でした。そのため、本物のお坊さんが奥女中とコンタクトを持つには、彼女たちに大奥(江戸城)の外に出てもらう必要がありました。お寺参りをしてもらうことで、その信任を勝ち得たのです。

彼女たちが城外に出る時の門は決まっていました。平川門と言います。この門は不浄門とも呼ばれました。死者や罪人を城の外に出す時に使用された門でした。例えば、赤穂浪士で有名な浅野内匠頭は刃傷後、この門から城の外に出されます。

この門を出て、奥女中たちはお寺に向かったわけですが、次では、彼女たちのお寺参りの様子を見ていきましょう。

2007年6月12日

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あまり知られていないことですが、江戸城には、御坊主がたくさん詰めていました。大奥にも御坊主はいましたが、何と言っても幕府役人が詰める表向、現代で言うと首相官邸・永田町ですが、ここには剃髪姿で法服を身にまとった御坊主が忙しく立ち働いていました。殿中のシーンを見ていると、お坊さんがよく行き交っています。

こうしたお坊さんは何のために、江戸城中にいたのでしょう?江戸城の裏方さんとしてのお勤めをしていたのです。

将軍の衣装を管理したり、将軍が顔を洗うのを準備する係を勤めるお坊さんもいれば、城中の雑用をこなすお坊さんもいました。御殿にあがるお殿様たちの世話をしたり、案内係を勤めるお坊さんもいます。歌舞伎にも登場する河内山宗俊は、御数寄屋坊主。御茶を出す喫茶係の御坊主でした。お坊さんは、人数は良く分かりませんが、その数は軽く百人は越したでしょう。

御坊主は、れっきとした武士でした。ただ、将軍様に使えるサムライとしては身分は低かったのですが、陰の実力者となるお坊さんもいました。

お殿様(大名)たちは江戸城の御殿に入ったら、一人で行動しなければなりません。何と言っても御殿は広く部屋も多かったので、案内係の御坊主に先導してもらわないと、迷路に入り込んでしまったような感じになってしまいます。ですから、あらかじめ、特定の御坊主に案内を頼んでおかないと、大変なことになります。何か不始末をしでかしてしまうと、御家に傷が付くのです。そのため、お殿様というより、その家来から挨拶という名の金品が届けられることになります。

また、彼らは御殿が職場なので、城中の事情には自然と詳しくなってしまいます。お殿様たちは、政界事情通の彼らと懇意になることで、シークレットな政界裏情報を手に入れることができました。その見返りとして金品を届けています。この時代にしても、情報を制する者が勝者となります。こうして、陰の実力者となり、贅沢な生活をすることができたのです。

さて、大奥の方の御坊主ですが、年齢は50才前後だったそうです。将軍の雑用掛を勤めました。その姿を見ると、頭は剃髪していて、羽織袴を着用していました。

何とも異様な姿ですが、この御坊主のみ、中奥という将軍の側近が詰める場所に入ることができました。大奥は男子禁制と言われますが、逆に言うと、大奥の女性官僚は大奥以外の場所に立ち入ることは許されませんでした。大奥以外の場所つまり中奥・表向は女人禁制だったのですが、唯一、羽織袴姿の御坊主は入れました。お坊さんの姿だったからではないでしょうか。

2007年6月 5日

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大奥は、江戸城の本丸御殿の中でも一番奥にありました。本丸御殿は現在、皇居東御苑の一部となっていますが、御殿の建坪は1万1300坪ほどあります。巨大な空間です。

御殿は3つの空間から構成されていました。幕府官僚が詰めて政務を執る表向、将軍が日常生活を送る中奥、そして将軍の寝所である大奥の3つです。そのうち大奥は約6300坪もあり、御殿の過半を占めている計算になります。

その後ろに天守閣がありましたが、明暦3年(1657)の明暦の大火で焼け落ちてしまった後は再建されないままでした。ですから、以後江戸城には天守閣は存在しないことになります。時代劇では、江戸城のシーンでお約束のように天守閣が映りますが、実際に天守閣がそびえ立っていたのは、江戸時代最初の50年ほどに過ぎませんでした。

中奥には将軍の身の周りの世話をする側近が多数詰めていましたが、大奥に入れる幕府官僚(もちろん男性ですが)は厳しく制限されていました。テレビにも登場する側用人ぐらいです。

ただ、大奥の経理を執る役人や警備の役人が詰めている空間もありました。これを、御広敷(おひろしき)と呼びます。この空間だけは例外でした。

俗に、大奥には3000人もの女性が住んでいたと書かれることが良くありますが、そんなに多くはありません。一番多い時で、1000人ほどでした。

奥女中とは、いわば幕府の女性官僚のような存在でした。将軍の寝所を独占しているわけですから、その威勢はたいへんなものでした。トップクラスの奥女中となると、幕府の閣僚人事までも左右する力を持っています。立身出世したいサムライたちは、争うように賄賂を奥女中に贈って、念願のポストを手に入れるのでした。

奥女中のトップは、御年寄でした。その威勢は老中つまり現在の大臣と同じとされたほどでした。生島新五郎と密通したと伝えられる絵島が、これに当たります。

大奥のドラマをテレビで見ていると、必ず登場してくるのが、御中臈です。御中臈とは、将軍の身の回りの世話をする女性を指しますが、将軍付の御中臈から、将軍のお手が付いて側室となりました。御中臈は高級官僚なのですが、それよりランクが下がる奥女中であっても、将軍の目に留まって、お手が付くと御中臈に昇進するシステムになっていました。

 将軍のご寵愛をめぐるバトルが、大奥ドラマのテーマとしてよく取り上げられますので、自然と、御中臈という言葉は耳に残ってしまうことになります。

さて、奥女中のなかに、「御坊主」と呼ばれた女性がいました。名前のとおり、剃髪姿でした。この御坊主も大奥の官僚なのですが、大奥に限らず、江戸城内には剃髪姿の官僚は大勢いたのです。

2007年6月 5日

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最近、テレビや映画などで大奥は大人気です。江戸城の奥深い謎の空間では、将軍様のご寵愛をめぐって、女性たちの熾烈な戦いが繰り広げられていました。

大奥のドラマを見ていると、必ず登場するのが、お坊さんです。それも、かなり重要な役回りを演じていることが多いのではないでしょうか。

大奥の女性と言うと、誰を思い浮かべるでしょう?犬を大切にした5代将軍綱吉の母・桂昌院は、テレビにも良く登場します。

絵島生島事件という大奥の大スキャンダルとして知られる事件がありました。正徳4年(1714)に起きた事件です。大奥の実力者絵島が芝の増上寺に参詣した帰りに歌舞伎を見て、人気役者生島新五郎と密通したと言うのです。この事件の背景には、6代将軍家宣の正室天英院派と、側室で時の7代将軍家継の母である月光院派(絵島は月光院派の中心人物)の争いがあったと言いますが、2人とも○○院という名前でした。

将軍が死去すると、正室(御台所)や側室たちは落飾して仏門に入ります。桂昌院は3代将軍家光の側室ですが、家光が死去したため、桂昌院と名乗りました。天英院と月光院は6代将軍家宣が死去したため、天英院、月光院と名乗ったわけです。落飾に係わるのはお坊さんですし、院号を授与するのも役目でした。

正室・側室に限らず、大奥に勤める奥女中たちの日々の生活には、仏教が深く係わっていました。大奥と言うと、なかなか外には出られないイメージが強いのですが、実際は何かと理由を付けて、お寺参りをしていました。お寺参りとなると、城の外に出やすくなったようです。

将軍が病気になると、その平癒のため。正室や側室が懐妊すれば、その安産祈願のため。あるいは、将軍の武運長久、天下泰平など、様々な理由を付けて、奥女中たちはお寺にやって来ました。

お坊さんの側も、奥女中たちが参詣するのを大いに歓迎しました。参詣してもらうと、いろいろなメリットがあったのです。今回は、大奥とお坊さんの深い関係をいろいろみていきます。

江戸時代、お寺参りは町人たちのレジャーでした。当時世界一の人口規模を誇った観光都市江戸では、お寺がありとあらゆる工夫を凝らし、現代の広告代理店さながらの参詣客の争奪戦が繰り広げられておりました。江戸研究家の安藤優一郎が語る、お寺にまつわる江戸の人間模様。
→ブログに登場する江戸名所の地図
安藤 優一郎 / 文
1965(昭和40)年千葉県生まれ。歴史家。江戸時代を専門とする。文学博士(早稲田大学)。NHK文化センターなどで生涯学習講座の講師を勤める。著書『徳川将軍家の演出力』『観光都市江戸の誕生』(新潮新書)では寺社の経営戦略を、新刊『江戸城・大奥の秘密』(文春新書)では、大奥とお寺の深いつながりを明らかにした。
→著者公式サイト
→著者ブログ「江戸探訪記」
→著者ブログ「大江戸グルメ日記」
加藤 円正 / イラスト
昭和51年愛媛県生まれ。人口100人ほどの瀬戸内に浮かぶ島にある、お寺の住職。イラストレーション、板目木版を中心に絵を描く。妖怪と時代劇とロックンロールを好む。2005年『怪』(角川書店)「第二回怪大賞」にて京極夏彦氏より妖怪版画で京極賞を受賞。
→イラストレーター公式サイト