2007年5月15日

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江戸時代は現代とは違って、イベントホールのような集客施設は限られていました。室内施設としては歌舞伎小屋が代表的なものですが、人がたくさん集まる場所と言えば、何と言ってもお寺の境内でした。お寺の側も、たくさんの人に来てもらおうと、様々な工夫を凝らします。

無数の娯楽が氾濫している現代とは違い、この時代の娯楽は本当に限られたものでした。江戸の人々にとって、お寺への参詣とは信仰心を満たすことはもちろん、余暇を楽しみ、癒しも得られる貴重な機会となっていました。

お寺の境内と言っても、その規模にはかなりの格差がありますが、浅草寺や寛永寺・増上寺クラスになると、その境内は数万坪という単位になります。こうしたお寺は、現在も境内はかなり広いのですが、江戸の頃はその数倍はありました。例えば、上野公園や芝公園は、まるごと寛永寺や増上寺の境内でした。

お寺の境内とは、いわば公園のような存在でした。ですから、自然と江戸っ子の憩いの場となるわけですが、となると、善男善女を相手にした様々な商売が生まれます。飲食店はもちろん、娯楽を提供する店などが立ち並ぶようになりました。それは境内だけでなく、門前も同じです。

こうした飲食店や娯楽を提供する店が立ち並ぶことで、お寺の境内・門前は集客力を高めていきます。芝居小屋や見世物小屋までもが立てられ、江戸のエンタメ空間として人気を呼びます。お寺の境内や門前は、江戸の盛り場に他なりませんでした。

江戸の盛り場と言えば、岡場所という名の遊女屋は欠かせませんでした。この時代、大きな寺社の門前には、必ずと言ってよいほど、遊女屋が立ち並んでいました。江戸は男性の独身者が圧倒的に多い町ですが、彼らが数多く集まる場所には岡場所と呼ばれた遊女屋がありました。

幕府が唯一認めていた遊郭は、吉原です。吉原以外の場所での遊女屋は営業禁止だったのですが、実際は守られていませんでした。特に、寺社の門前町は寺社奉行の支配地で、町奉行所の役人は踏み込めませんでした。こうして、法の抜け穴と言うべき寺社の門前に遊女屋が集中してしまったわけです。

しかし、風俗街のような顔を持っていた江戸の盛り場から、一方では女性アイドルも次々と生まれていきます。茶店で給仕をする少女が、お寺にやってきた人たちの間で評判となったのです。ちょうど江戸の中頃のことですが、その火付け役となる一人の美少女が、谷中の笠森稲荷門前の水茶屋から生まれます。名前を、お仙と言いました。笠森お仙の登場です。

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江戸時代、お寺参りは町人たちのレジャーでした。当時世界一の人口規模を誇った観光都市江戸では、お寺がありとあらゆる工夫を凝らし、現代の広告代理店さながらの参詣客の争奪戦が繰り広げられておりました。江戸研究家の安藤優一郎が語る、お寺にまつわる江戸の人間模様。
→ブログに登場する江戸名所の地図
安藤 優一郎 / 文
1965(昭和40)年千葉県生まれ。歴史家。江戸時代を専門とする。文学博士(早稲田大学)。近著に『幕臣たちの明治維新』(講談社現代新書)、『大名屋敷の謎』(集英社新書)、『江戸城・大奥の秘密』(文春新書)『徳川将軍家の演出力』(新潮新書)。東京理科大学生涯学習センター、JR東日本・大人の休日倶楽部「趣味の会」講師も勤める。
→著者公式サイト
→著者ブログ「江戸探訪記」
→著者ブログ「大江戸グルメ日記」
加藤 円正 / イラスト
昭和51年愛媛県生まれ。人口100人ほどの瀬戸内に浮かぶ島にある、お寺の住職。イラストレーション、板目木版を中心に絵を描く。妖怪と時代劇とロックンロールを好む。2005年『怪』(角川書店)「第二回怪大賞」にて京極夏彦氏より妖怪版画で京極賞を受賞。
→イラストレーター公式サイト