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2007年5月 アーカイブ

2007年5月29日

浅草寺には、いちょう娘のお藤のほか、蔦屋およし、堺屋おそでなどの看板娘がいました。浅草寺以外のお寺の境内や門前の茶屋にも看板娘がいて、お寺の賑わいに一役買っていました。お仙、お藤に蔦屋およしを加えた三人を、俗に明和の三美人と呼んだそうです。

お寺のアイドルたちが錦絵に取り上げられ、人気を博したということは、それだけ、お寺の境内には人が集まって来ていたことの何よりの証明でしょう。お寺が様々なビジネスチャンスをもたらす場であったことも、よく分かります。

さて、江戸っ子のアイドルとなったお仙でしたが、浅草寺でお仙団子を売った翌明和7年(1770)2月に、突然姿を消します。江戸のトップアイドルが姿を消したのですから、江戸の町は話題騒然となりました。週刊誌の見出し記事ではありませんが、その理由や消息をめぐって、あれこれ風評が飛び交ったようです。こんなところも、現代と共通しているでしょう。お寺の境内は、みんなから注目されている話題の場所なのでした。

この頃、江戸の町に流行ったフレーズに、「とんだ茶釜が薬缶に化けた」というものがあります。「とんだ茶釜」とは、美女を指す言葉だそうですが、お仙が姿を消した後は、老父(「薬缶」)が店に出ているだけだったということを表現したものです。江戸っ子ががっかりしている様子が、よく分かります。

実は、お仙(当時20才)は密かに結婚していたのです。旗本の倉地政之助(当時30才)のもとに、倉地家の親類馬場家の養女という形で輿入れしました。倉地家は元々、笠森稲荷とは縁があった家でした。

トップアイドルが天下の御直参のお旗本に嫁ぐとなると、話題になるでしょう。養女とは言え、身分の違いということでも話題になるでしょう。しかし、倉地家というのは将軍家御庭番を勤めていた家でした。そうした特殊の家ですから、世間の話題になるのを好まないという事情もあったのではないでしょうか。いろいろな思惑があって、結局極秘結婚の扱いとなり、お仙は世間から消えてしまうのです。

江戸っ子はがっかりしたでしょうが、お仙が給仕していた水茶屋はもちろん、笠森稲荷も同じ気持ちだったでしょう。

しかし、お寺では次のアイドルも生まれていきます。こうした人気は、一過性のものではありませんでした。

この20年ほど後の寛政の頃(1790年代)には、喜多川歌麿が描いた錦絵が大人気となります。高島屋おひさ、難波屋おきた、菊本おはんです。この三人は寛政の三美人と呼ばれましたが、難波屋おきたは浅草寺の隋身門の門前茶屋で給仕をしていました。難波屋というのが、その店でしょう。

このように、お寺は人気アイドルを次々と生み出す舞台でした。まさに、江戸の芸能界でした。こうした話題性は回り回って、お寺の集客力を高める効果をもたらしていましたが、その効果は江戸の錦絵業界をはじめ、各業界にも波及し続けていくものでした。こうした構図が、華やかな江戸文化を生み出していく大きな原動力になっていたのです。

お仙のその後ですが、旗本の妻として過ごし、文政10年(1827)に77才で亡くなります。菩提寺の正見寺(新宿区四谷にありましたが、現在は中野区上高田に移転)に葬られました。現在も、夫の倉地政之助と一緒に眠っています。

なお、谷中の大円寺の境内には、「錦絵開祖鈴木春信」の碑と、永井荷風が建立した「笠森阿仙乃碑」があります。

2007年5月29日

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浅草寺にも、春信が描いて人気となった評判娘がいました。浅草寺の境内に奥山と呼ばれた場所があります。見世物小屋が立てられ、大道芸人が芸を披露するなど、江戸の多様な芸能が楽しめる場所でしたが、その楊枝屋のお藤という娘を描いたところ、たいへんな人気を呼んだのです。

この時代、楊枝は歯ブラシとして使われていました。浅草寺境内は、楊枝屋が多いことで知られていましたが、各店は看板娘を揃えて、売り上げのアップをはかりました。ですが、人気絵師の春信に描かれたことで、お藤がライバルを引き離すことになります。

お藤は、いちょう娘とも呼ばれていました。その店が、大きな銀杏の木の下にあったからですが、なんと、いちょう娘のお藤と笠森お仙の二人が、明和6年(1769)4月に、浅草寺で火花を散らすことになります。時に、お仙は19才でした。

この4月から、浅草寺では本尊の観音様のご開帳がはじまりました。普段より、浅草寺の人出は格段に多くなります。それに目を付けて、ご開帳となると出店の数は多くなるのですが、当時大人気のお仙までも、浅草寺に登場したのです。お仙の店が浅草寺にも出店してきて、お仙団子を売ったのです。

笠森稲荷では、願掛けする時は土で出来た黒団子を供え、願いが成就した時は米の粉で作った白団子を供えることで知られていました。これにちなんで、団子を売ったのでしょう。

浅草寺という江戸で一、二を争う繁華な場所でお仙が団子を売れば、それだけでお仙の知名度はさらにあがります。お仙人気が高まれば、笠森稲荷の知名度もあがり、お仙見たさの参詣人も増えます。

浅草寺にしても、今大人気のお仙が来てくれれば、いやが上にも話題となり、集客力が高まると期待したでしょう。その上、二人のアイドルが同じ境内で火花を散らすとなれば、より話題となります。いちょう娘のお藤だけでなく笠森お仙も、浅草寺に大きなメリットをもたらしていたのです。

2007年5月22日

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谷中は現在でもお寺の多い町ですが、江戸の頃は感応寺(現在の天王寺)という巨大なお寺がありました。広大な境内は、現在は大半が谷中霊園になってしまいましたが、その感応寺の門前の一角に笠森稲荷はありました。現在、功徳林寺(台東区谷中7-6-9)というお寺がある場所にあたります。

お仙は、笠森稲荷門前の水茶屋鎰屋(かぎや)五兵衛という者の娘でした。父親の店を手伝って、お茶を出していたのですが、その美しさに目を留めたのが浮世絵師の鈴木春信です。モデルとしてスカウトされたわけです。

当時、浮世絵師は水茶屋で給仕をする女性たちを描いて、人気を博していました。描かれた女性は評判娘と呼ばれましたが、その大半はお寺の境内や門前の飲食店で給仕に出ていた女性でした。現代で言うと、看板娘のようなものでしょうが、この時代はお寺の境内に、江戸の人気アイドルが集中していたのです。

水茶屋としては、彼女たちの人気が高まれば、おのづから集客力が高まるわけですから、営業上の目論見もあって、春信の求めに応じたのでしょう。その恩恵を受けるのは、水茶屋だけでなく、お寺も同じであることは言うまでもありません。

お仙が錦絵に取り上げられたのは、明和の頃と言いますから、1760年代です。お仙がお茶を出している構図です。現代で言うと、ポスターのようなものですが、この錦絵は大ヒットし、お仙見たさに笠森稲荷に大勢が押しかけることとなります。

購買層は主に男性でしょう。江戸は独身の男性が圧倒的に多い町ですから、女性が描かれる錦絵の需要は相当ありましたが、お仙人気はその需要の大きさを証明した形でもあります。当然ながら、お仙が給仕する水茶屋の売り上げも、笠森稲荷のお賽銭の上がりも増えました。春信の懐も潤いました。

お仙は錦絵だけに登場したのではありません。絵草紙や双六、瓦版などの出版メディアにも取り上げられました。手ぬぐいの絵柄になりました。人形にもなりました。芝居のセリフにも取り上げられ、人気に拍車がかかりました。みんな、お仙ブームにあやかったわけです。こうしたお仙人気の高まりは、笠森稲荷の集客力アップに直結していくものでした。

2007年5月15日

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江戸時代は現代とは違って、イベントホールのような集客施設は限られていました。室内施設としては歌舞伎小屋が代表的なものですが、人がたくさん集まる場所と言えば、何と言ってもお寺の境内でした。お寺の側も、たくさんの人に来てもらおうと、様々な工夫を凝らします。

無数の娯楽が氾濫している現代とは違い、この時代の娯楽は本当に限られたものでした。江戸の人々にとって、お寺への参詣とは信仰心を満たすことはもちろん、余暇を楽しみ、癒しも得られる貴重な機会となっていました。

お寺の境内と言っても、その規模にはかなりの格差がありますが、浅草寺や寛永寺・増上寺クラスになると、その境内は数万坪という単位になります。こうしたお寺は、現在も境内はかなり広いのですが、江戸の頃はその数倍はありました。例えば、上野公園や芝公園は、まるごと寛永寺や増上寺の境内でした。

お寺の境内とは、いわば公園のような存在でした。ですから、自然と江戸っ子の憩いの場となるわけですが、となると、善男善女を相手にした様々な商売が生まれます。飲食店はもちろん、娯楽を提供する店などが立ち並ぶようになりました。それは境内だけでなく、門前も同じです。

こうした飲食店や娯楽を提供する店が立ち並ぶことで、お寺の境内・門前は集客力を高めていきます。芝居小屋や見世物小屋までもが立てられ、江戸のエンタメ空間として人気を呼びます。お寺の境内や門前は、江戸の盛り場に他なりませんでした。

江戸の盛り場と言えば、岡場所という名の遊女屋は欠かせませんでした。この時代、大きな寺社の門前には、必ずと言ってよいほど、遊女屋が立ち並んでいました。江戸は男性の独身者が圧倒的に多い町ですが、彼らが数多く集まる場所には岡場所と呼ばれた遊女屋がありました。

幕府が唯一認めていた遊郭は、吉原です。吉原以外の場所での遊女屋は営業禁止だったのですが、実際は守られていませんでした。特に、寺社の門前町は寺社奉行の支配地で、町奉行所の役人は踏み込めませんでした。こうして、法の抜け穴と言うべき寺社の門前に遊女屋が集中してしまったわけです。

しかし、風俗街のような顔を持っていた江戸の盛り場から、一方では女性アイドルも次々と生まれていきます。茶店で給仕をする少女が、お寺にやってきた人たちの間で評判となったのです。ちょうど江戸の中頃のことですが、その火付け役となる一人の美少女が、谷中の笠森稲荷門前の水茶屋から生まれます。名前を、お仙と言いました。笠森お仙の登場です。

2007年5月14日

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江戸は人口百万人を超えるという、当時世界最大の都市でした。将軍様のお膝元ですから、江戸が政治都市であるのはもちろんですが、百万人の生活を養うための膨大な生活物資が、毎日集まって来ます。江戸は、巨大な経済都市でもありました。

江戸の旺盛な経済活動を象徴するものが3つあります。日本橋の魚市場、日本橋の芝居町、浅草寺裏手の遊廓吉原です。どれも、一日に千両のお金が落ちると言われた場所でした。朝に魚市場で千両、昼に芝居町で千両、夜に吉原で千両のお金が落ちたというのです。千両と言うと、現代の数億円にあたりますから、江戸というマーケットの巨大さがよく分かる数字と言えます。

この巨大マーケットに目を付けた人々により、江戸では様々なビジネスが生まれていました。そうしたなか、お寺も江戸市場で経営基盤の強化をはかります。江戸を地盤とするお寺だけでなく、地方のお寺も江戸に出て来て秘仏を開帳し、利益を挙げようと試みます。

江戸市場には全国のお寺が参入してきて、集客合戦に鎬を削るのですが、この連載では、お寺が様々な手法を駆使して、江戸っ子の心をつかもうとした様子を見ていきます。そこには、現代にも役立つようなアイデアがたくさん詰まっています。江戸のお寺の懐の深さも見えてくるでしょう。

こうしたお寺の活動そのものが、江戸文化をより豊かなものにしていった側面にも、合わせて目を向けていきたいと思います。

江戸時代、お寺参りは町人たちのレジャーでした。当時世界一の人口規模を誇った観光都市江戸では、お寺がありとあらゆる工夫を凝らし、現代の広告代理店さながらの参詣客の争奪戦が繰り広げられておりました。江戸研究家の安藤優一郎が語る、お寺にまつわる江戸の人間模様。
→ブログに登場する江戸名所の地図
安藤 優一郎 / 文
1965(昭和40)年千葉県生まれ。歴史家。江戸時代を専門とする。文学博士(早稲田大学)。NHK文化センターなどで生涯学習講座の講師を勤める。著書『徳川将軍家の演出力』『観光都市江戸の誕生』(新潮新書)では寺社の経営戦略を、新刊『江戸城・大奥の秘密』(文春新書)では、大奥とお寺の深いつながりを明らかにした。
→著者公式サイト
→著者ブログ「江戸探訪記」
→著者ブログ「大江戸グルメ日記」
加藤 円正 / イラスト
昭和51年愛媛県生まれ。人口100人ほどの瀬戸内に浮かぶ島にある、お寺の住職。イラストレーション、板目木版を中心に絵を描く。妖怪と時代劇とロックンロールを好む。2005年『怪』(角川書店)「第二回怪大賞」にて京極夏彦氏より妖怪版画で京極賞を受賞。
→イラストレーター公式サイト