2008年4月22日

重倫が藩主時代は、紀州家と高尾山との関係はたいへん強いものでした。ですから、重倫の家族だけでなく、紀州家の家臣たちにも高尾山を厚く信仰する者が大勢いたでしょう。紀州家の江戸屋敷には、家臣だけで1000人以上はいました。家族も含めればその数倍。

そして、紀州家には分家もいくつかあります。高尾山としては、本家たる紀州家を通して分家への浸透も期待したことでしょう。紀州家の当主に跡継ぎがいなければ、分家から養子に入るわけですから、紀州家とのゆかりを永続的なものにするには、分家からも帰依を受けておく必要がありました。

さらに、紀州家は徳川将軍家の実家にもなっていましたので、将軍やその家臣たちへの浸透も期待できたわけです。ですから、紀州家を護摩檀家であることは、はかりしれないメリットを生んでいたのです。

しかし、高尾山に深く帰依していた重倫が隠居すると、紀州家の方針が変わってしまったようです。紀州家からの祈祷依頼の回数が激減し、天明6年(1786)には、祈祷料の奉納まで取り止められてしまっています。

正月・5月・9月の年3回、護摩檀家には護摩札を配札していましたが、紀州家ではその度に、ある程度のお金を高尾山に奉納していました。護摩札を配札されると、紀州家に限らず、大名や商人などは永代護摩供養料とは別に奉納金を納めていたようです。これを中止してしまったのです。

別に、高尾山に落ち度があったわけではありません。紀州家の懐事情が理由なのでした。

当時、紀州家は財政難に苦しんでいました。そのため、支出を切り詰めて財政再建をはかろうという倹約の方針が強力に推進されていたのですが、高尾山への祈祷料も、そのターゲットになってしまったわけです。

護摩札を配札した時、高尾山は紀州家に御守りも届けていたようですが、同じく天明6年に、紀州家では以後届けるに及ばないと申し渡しています。お守りが届けられるたびに、何らかの奉納金を納めていたのでしょう。それを節約したかったのです。

護摩檀家という関係を通して紀州家に食い込み、様々な形でお布施を受けていた高尾山でしたが、この一連の経緯からは、紀州家にとっては高尾山へのお布施がかなりの負担になっていたことが分かります。言い換えると、それだけ高尾山の経営にとってはプラスになっていたということでもあります。

しかし、こうした紀州家の対応は経営基盤に直結する問題です。当然、高尾山は危機感を強めます。紀州家へのアプローチを強力に展開していくのです。

2008年4月29日

紀州家8代目藩主徳川重倫は高尾山に厚く帰依していましたが、9代目藩主徳川治貞の時代になると、紀州家の財政難により、高尾山への奉納金がカットされてしまいます。このため、紀州家との縁を通じて江戸の武家社会への浸透をはかり、江戸での基盤を強化していった高尾山は、巻き返しをはかることになります。

治貞は間もなく隠居し、10代目藩主に徳川治宝が就任します。この紀州家の代替りを機に、高尾山は様々なルートを通じて、紀州家に働きかけていきます

その具体的な内容は良く分からないのですが、紀州家からは葵の紋所が付いた戸帳や提灯を寄進されるようになったり、江戸出開帳の時は御殿女中の参詣もみられるようになりました。藩主に仕える御殿女中たちに働きかけていた様子が想像できます。

将軍で言えば、大奥の奥女中たちを味方につける形で、高尾山は紀州家との縁を復活させようとしたのです。こうして、再び物心両面での強力なバックアップを受けることになります。なお、高尾山は同じ御三家の尾張家の子孫繁栄の護摩祈祷をおこなっています。

尾張家や紀州家だけではありません。福井藩主松平家、浜田藩主松平家など数多くの大名家も護摩檀家でした。殿様だけでなく、家臣たちにも配札していますから、紀州家と同じく、大名家全体に高尾山の名前は浸透していったのです。

ところで、武士への配札と言っても、その対象は徳川御三家の大名から与力・同心などの御家人までバラエティーに富んでいましたが、その方式には6つのランクがありました。大箱札、箱札、中奉書台附、小奉書台附、包札、札守の6つです。

詳しいことは分かりませんが、最も厚遇されていたのが大箱札組で、段々と薄礼になっていくのでしょう。大きな箱に納められた護摩札を届けられるのが一番で、台の上に載せられて届けられるのが中くらい。包紙の中に収められて届けられるのは下のランクで、包紙にも収められないのは最も下のランクということになるわけです。永代護摩供養料とは別に奉納される金額に、比例したランク付けなのでしょう。

2008年5月 6日

護摩檀家は武士だけではありません。裕福な江戸商人たちも、高尾山の護摩檀家でした。「江戸田舎日護摩講中元帳」から、どんな商人たちが檀家だったかを見ていきましょう。

呉服問屋、米穀問屋、炭薪問屋などの商人の名前が多数みられますが、呉服問屋のなかには、三井越後屋や伊豆蔵の名前があります。江戸を代表する豪商でした。成田講の事例でみたように、江戸の富裕層を護摩檀家としていたことが分かります。

高尾山としては、江戸の豪商を護摩檀家とすることで、その富を経営基盤に組み込むことができたわけです。三井越後屋などは成田山の江戸出開帳の時、成田不動を守護する行列が休憩する場所になっていました。成田山の有力スポンサーでもあったからです。

成田不動の江戸での足取りを追って行くと、成田山の支持基盤が自然と浮き彫りになっていくことは、成田講の事例でみたとおりです。スポンサーであるからこそ、成田不動はわざわざ三井越後屋にやって来たわけです。

豪商の側からみると、成田山のスポンサーとなることで、信者への好感度はアップすることでしょう。それが狙い目だったわけですが、三井越後屋が高尾山の護摩檀家になったことにも、同じ思惑があったことは言うまでもありません。

高尾山にとっても、三井越後屋が護摩檀家であることは、物心両面での強力なバックアップが期待できたでしょう。さらに、その事実は越後屋の御得意さんへのアピールにもつながります。ですから、江戸に貫主がやって来た時には、豪商の家をわざわざ訪れ、関係の維持強化につとめています。

大商人だけでなく、小売り商人や様々な職種の職人にも、護摩講中のメンバーでした。成田講や川崎大師講と同じく、高尾講もたいへんバラエティーに富んでいた講中だったわけです。これは職業別の講ですが、地域で結成された講もあります。「新宿講中」「鎌倉河岸講中」「堺町講中」などがあります。

「御膳講」「杉筍講」という講中もあります。それぞれ、御膳や杉筍を奉納するために結成された講なのでしょう。

江戸時代、お寺参りは町人たちのレジャーでした。当時世界一の人口規模を誇った観光都市江戸では、お寺がありとあらゆる工夫を凝らし、現代の広告代理店さながらの参詣客の争奪戦が繰り広げられておりました。江戸研究家の安藤優一郎が語る、お寺にまつわる江戸の人間模様。
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安藤 優一郎 / 文
1965(昭和40)年千葉県生まれ。歴史家。江戸時代を専門とする。文学博士(早稲田大学)。NHK文化センターなどで生涯学習講座の講師を勤める。著書『徳川将軍家の演出力』『観光都市江戸の誕生』(新潮新書)では寺社の経営戦略を、新刊『江戸城・大奥の秘密』(文春新書)では、大奥とお寺の深いつながりを明らかにした。
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→著者ブログ「江戸探訪記」
→著者ブログ「大江戸グルメ日記」
加藤 円正 / イラスト
昭和51年愛媛県生まれ。人口100人ほどの瀬戸内に浮かぶ島にある、お寺の住職。イラストレーション、板目木版を中心に絵を描く。妖怪と時代劇とロックンロールを好む。2005年『怪』(角川書店)「第二回怪大賞」にて京極夏彦氏より妖怪版画で京極賞を受賞。
→イラストレーター公式サイト