
- 善巧寺境内にある大きなイチョウの木の前で。
雪山俊隆さんは、富山の名刹・善巧寺の22代住職であり、全国の音楽ファンに知られている『お寺座LIVE』を開催するポップな住職であり、また仏教エンタメサイト『メリシャカ』のメンバーとしても活動されています。でも、雪山さんのスゴさは、経歴や肩書き、あるいはその活動内容では語り尽くせません。自分の目の前にあることから逃げずに、一つひとつ受け止めていく苦しみに向き合うこと。それは、誰にでもできることではありませんよね。今回もまた3回に分けて、ていねいにじっくりと雪山さんを"めくって"まいりたいと思います。
名僧たちが歴史が刻んだ寺に生まれて
――曾祖父さまはドイツ文学者、お祖父さんは文学者志望であったりと、善巧寺のご住職は代々ユニークな方が多いですね。
そうなんです。うちはちょっと特殊かもしれません。約550年の歴史のなかで、一番有名なのは11代目住職で、江戸時代の真宗教学の中枢を担った僧鎔(そうよう)さん(1723-1783)。「難しい経典をわかりやすく一般の人に説く」ために全国をまわり、善巧寺に『空華盧(くうげろ)』という仏道を学ぶ私塾を開いた人です。『空華盧』には、全国からお坊さんが学びに来て、僧鎔さんのお弟子さんたちもまた全国で私塾を作るんですよね。その後、少し時代を下って、明治時代にドイツに留学して、ドイツ文学者として活躍した19代目の俊夫、そして日本浪漫派の文学者として評論を発表し、哲学教授として教鞭をとった20代目の俊之が、僕の祖父になります。
父は「僧侶になった新聞記者」として、お寺の子ども劇団「雪ん子劇団」を成功させた住職として、本願寺ではよく知られていました。テレビのドキュメンタリー番組や著書、そして永六輔さんとのおつきあいを知って、「すごいお父さんだね」「あの善巧寺の息子なんだ」と言われることも多くて。ヘンなプレッシャーを感じることも多かったです。
――子どもとしては、そういうのはちょっとメンドクサイですね。
そう、メンドクサイ(笑)。父の死の前後に制作されたドキュメンタリー番組は、放送されてから10年ほどはまともに観れませんでした。でも、今はコピーして全門徒さんに配布しようと思っていますし、許可が出れば『YouTube』にもアップしようかと。仏教の魅力を伝えるには、言葉よりも仏教を支えとしていた人間の生きざまを観てもらうほうが手っ取り早いですから。
――お父さまは、一般在家の方だったんですか?
いえ、父は、大阪・高槻市の常見寺というお寺で生まれた人です。子どもの頃から、ラジオドラマの子役をしていて、早稲田大学演劇科に入学。卒業後は、劇団四季、劇団青俳で活動したのち俳優の道を断念して、大阪産経新聞社の社会部記者に転身しました。その頃、北日本放送のキャスターをしていた母とお見合いして結ばれたんですね。
本人同士はさておき、父方の祖父は「お前が行かないなら俺が善巧寺に行きたい!」と言うほど喜んだそうです。実は、祖父の寺は、僧鎔さんの弟子の流れをくむ私塾スタイルの僧侶養成学校『行信教校』の母体なんです。僧鎔さんの時代から200年以上の時を経て、富山と大阪でご縁がつながるなんて不思議ですよね。
――ずいぶん、そうそうたる人の歴史のなかに生まれられたんですね。
中学生までは、外の世界を知らないからそれが当たり前だと思っていたんです。ところが、平安高校に入ってから他のお寺のことを知って「あれ、どうもウチは他と違うな」と、初めて自分のお寺を客観的に見るようになりました。
『行信教校』で受けた強烈なインパクト
――平安高校へ進まれたのは、雪山さんご自身の意思ですか?
いえ、父から「ここを卒業したら得度を受ける資格が得られるから」と紹介されました。父は、僕が中学3年生のときにガンになったんです。もう先が長くないと知って、父は「お前は外に出ていろいろ経験できる時間があまりないから」と考えたのではないかと思います。

- 子供時代の雪山さん(右)。左は弟さん。
高校卒業後は、中央仏教学院で1年間、行信教校で4年間学びました。特に、行信教校で受けたインパクトはものすごく強くて。先生方の言葉は、ガッサガッサと身体に入ってくるし、周りの諸先輩方は、仏教を生涯学び続けていこうという人ばかり。その方たちを見ていて「これこそお坊さんだな」と思ったんです。
当時の僕はまだ10代。諸先輩方とともに経典を研鑽すると言っても、最初はまるで宇宙語を聴いているような状態でした。もうひとつ、行信教校でビックリしたのは、自分のお寺とは対極と言っていいほど、その在り方が違っていたことでしたね。
――行信教校と善巧寺の在り方、どう違っていたんですか?
行信教校は、「仏法を学ぶ場」という要素がすごく強い。かたや善巧寺は、劇団があったり、イベントがあったりと活動的な面が強い。ストレートに考えると、お坊さんは仏法を説いていくのがど真ん中の道ですよね。それに触れるうちに、うちのお寺の活動的な在り方がよくわからなくなったんですよ。それまでは「そういうものだ」と思っていたのに、リンクしなくなってしまったんです。
失われたリンクを復活させるきっかけは、ひとつあげるなら、叔父の「念仏する者が行うならよし」という言葉。仏教精神を旨として活動するのは坊主の本分である、ということですね。でも、今も葛藤がなくなったわけではないんですよ。ただ、どちらかに偏ることなく引っ張りあう緊張感のなかで、よいバランスをとれるのではないかと思っています。
『お寺座LIVE』のルーツは京都クラブカルチャーにあり!?
――学生時代は、ずっと真面目に勉強ばかりをされていたんですか?
いやいや、僕は根がけっこう遊び人なところがあって(笑)。週末なんかは高校時代の悪友たちと京阪丸太町駅の地下にあるクラブ『METRO』などによく出入りしていました。当時のクラブは、ハウスならハウスだけとジャンルごとに分かれていたけど、『METRO』は毎日全然色が違うんですよ。ジャンルはもちろん客層もガラッと変わっちゃう。それがすごく新鮮だったし、流行りはじめた音楽をすぐに紹介するような尖ったところに、ミーハー気分もすごく満たされました。ある意味、すごく学ばせてもらった場所ですね。
――そのあたりが『お寺座』など、現在の活動にバッチリ活かされてるんですね。
いやいや(笑)。ただ、そうやって京都で遊ぶうちに、「京都の卒業論文」になるような何かをクラブでやりたいと思いはじめたんです。それで、脚本を書いて悪友たちに「ホントは映画を撮りたいけど、無理だから芝居をやりたいと思うんだ」と声をかけ、フライヤーを作って『METRO』で役者のナンパもしました。クラブは音楽の世界だから、劇中の音楽もサウンドトラックみたいに、DJが即興で回したらいいんじゃないかって考えたりね。クラブカルチャーが好きで、僕もお世話になってきたし、そこにいる人たちに何かを届けたかったんですよ。
半年くらい練習をして、富山に帰る前夜に『LAB. TRIBE』で最初で最後の公演をしました。芝居がはねた後はDJに回してもらって、朝まで遊んでそのまま車で帰る、みたいな(笑)。行信教校での学びと、京都での遊びに区切りをつけるというドラマに完全に酔っていたんです。お寺に戻ったのは23歳のとき、すぐに住職になりました。
プロフィール
雪山俊隆/ゆきやま・としたか
1973年生まれ.善巧寺22世住職。30年続く児童劇団「雪ん子劇団」の指導や地元ラジオ局でのパーソナリティなどを行う。『お寺座 LIVE』(2006年スタート)などの取り組みを通じ若者で賑わう寺をめざす。善巧寺のサイト『ZengyouNet』を中心に、インターネットの情報発信にも力を注ぎ、『ポッドキャスト説法』は登録者数が10万人を超え、ニフティ主催の『PODCASTING AWARD 2006』で審査員特別賞を受賞。同時期、お坊さん仲間で仏教エンタメサイト『メリシャカ』を設立。
善巧寺
浄土真宗本願寺派 白雪山善巧寺
約550年の歴史ある名刹。宇奈月温泉に近い、自然豊かな環境にある。11代僧鎔は、僧侶育成する私塾『空華盧』を開き、3000人にも上る門弟を集めた。19代俊夫はドイツ文学者として活躍し『日本ゲーテ協会』創立者のひとり、20代俊之は『日本浪漫派』として評論を発表したのち各大学で教鞭をとる哲学教授に、また21代隆弘は『僧侶になった新聞記者』として知られており、児童劇団『雪ん子劇団』の創立で注目を浴びた。現在は、数十万本のチューリップを飾り、仏前で初参式を行う華やかな『花まつり』、手作り縁日が境内に並ぶ『盆踊り』そして、秋の夜に行われる『お寺座LIVE』などを開催。「お寺は文化の発信地」をキーワードに、さまざまな活動が展開されている。