2009年2月 5日

 価値観の違いについて続けたいと思います。最近よく思うことは、東洋と西洋は基本的に全く違う文化と捉えた方がよいということです。

 もちろん東洋といっても私の知っている東洋は日本で、仏教的立場という意味です。西洋と言っても私の知っている西洋はアメリカです。

 西洋と東洋は、ほとんど逆だと思った方がいいのではと思います。宗教的に言えば、西洋が一神教であるのに対して、東洋は多神教。聖書は一つですが、仏教の経典は8万4千あると言われます。西洋では個人を重んじますが、東洋では団体を重んじます。我の宗教に対して無我の宗教、言葉の宗教に対して沈黙の宗教、剛の宗教に対して柔の宗教、という具合で、あげればきりがないのです。

 私も日本にいる時は、いわゆる「西洋かぶれ」派でありましたが、アメリカにきてから、日本には西洋にない素晴らしいものをたくさん持っている、と認識し始めました。今では、日本は古来から培ってきた価値観、特に仏教的価値観を大切にするべきだと思っています。

 日本では仏教と言えば、古くさいというイメージがあるかも知れませんが、アメリカでは仏教と言えば、新しく新鮮なイメージを持っています。価値観が違うということはそこに今まで持っていたものとは違った世界を見せてくれるということなのです。

 今の日本には価値観といえばお金ぐらいですが、それでは日本が世界のリーダーとなることは無理でしょうし、リーダーになってもらっては困ります。

 それよりも日本にはもっと多くの誇れる価値観があると思っています。仏教もその一つです。江戸時代までの仏教は生きていました。寺院などの形ではなく、仏教の精神を復活させると日本は変わるでしょうね。仏教の特徴は「和」の精神、「寛容」の精神、「慈悲」の精神、「縁起」の思想などです。

 ただし今の日本の多くのお寺は自分のお寺の経営のことばかり考えて、お寺までがお金の価値観で動いているようです。大乗仏教の利他(自分よりも人々の利益を優先する)の教えはどこへやらです。宗派で争う暇があったら、協力して今の日本を引っ張っていこうと相談した方がいいですね。

 先月もあるニューヨークの雑誌の編集長さんと話していたのですが、日本でホームレスの人たちが増えているようですが、お寺は境内を解放したり、食事を供給してあげるべきだと思います。

 アメリカであれば、教会がホームレスの人々のために食べ物を与えたり、境内をシュルターとして使ったりして、救済をはかっています。日本のお寺ももっと社会に開かれたものでなければならないと思います。お説教は口だけでするものではないはずです。身体をもって利他の実践を考えてもらいたいとひそかに思うものです。

 西洋の宗教を見ていて、すごいと思うことはこの行動力です。動いてばかりで、もう少し考えて行動しなよ、と言いたいこともありますが、それにしてもすぐ実行に移す能力は見習わねばなりません。

 第9条の戦争放棄でも、世界に類を見ない慈悲、非暴力主義を説いたすばらしい憲法でありますし、原爆で多くの犠牲を出した日本、唯一の被爆国である日本が戦争の恐ろしさ、悲惨さを伝えていく上でも大切な条項です。

 中東やアフガニスタンで軍事要請が来た時に、答えられなかったといいますが、本当に日本がせねばならなかったことはフランスなどが行ったようにあくまで攻撃に反対すべきであったと思います。友好関係を結んでいるということはただ相手の言うままになっているということではなく、意見も言い合える関係でなければなりません。

 核開発をしようとしている国、また核兵器をもっている国の代表者は必ず広島・長崎を訪れ、核をもつことの意味を認識してもらうべきでしょう。また第9条を諸外国にもその憲法に付け加えるように進言して、世界に第9条憲法運動を起こして行くような外交があってしかるべしだとも思います。

 少々過激な発言なのかもしれませんが、世界で多くの人々、罪のない子供たちも殺されている現実を見据えるならば、平和憲法をもっている日本こそが本当の意味で、諸外国に戦争を止めるように言える位置にあるはすです。

 日本にはもっと世界に対して、真のリーダーシップを発揮してもらいたいと願っています。日本人はもっと自分の持っているものに自信を持つべきです。それだけの持ち駒があります。

 最近で、よかったと思ったことと言えば、中国のオリンピックの聖火出発になっていた長野の善光寺さんが中国の人権侵害問題、いわゆるチベット問題を理由にそれを辞退したことでしょうか。「まだ日本仏教は生きていた!」という感じでした。

 いろんな価値観があっていいとは思いますが、私は今の世界を本当に救えるのは仏教の価値観だと思っています。「蘇れ、日本仏教!」

ーTK拝

2009年2月15日

 昨日はお葬式が入り、ニュージャージ州のシーブルック仏教会に日帰りで行ってきました。先月一月に今までいた開教使が転任になり、次の開教使が来るまで私がお寺の面倒を見ることになったのです。

 ニューヨークから南に下がり、シーブルックまで自動車で2時間半〜3時間ぐらいかかります。往復ですので、5時間以上、私は自動車を運転しました。一泊できれば楽ですが、今日は用事が入っていますので、結局日帰りでした。少々、疲れて、ブログを書いているうちに眠ってしまいました。

 お葬式は日系3世の方でしたが、奥さんは白人の方で、お参りされている方も半分以上は白人の人で、仏教の葬式に来るのは初めてという感じでした。前もってお焼香の仕方や意味を説明してから始めます。

 お葬式は、残された人が「死」を実感する上でも大切だと思っています。生きている限り、必ず死ぬのです。死にたくなければ、生まれなければいいのですが、それは無理な話しです。生と死は対立するというより、「生」を考えることは、「死」を考えることですし、死の意味がわかって初めて生の意味もわかってくるのでしょう。

 現代は「死」を避けるようですが、自分の「死」というものを考えることは大切です。人間いつまでも生きているように思うから、毎日を無駄にしてしまうのでしょうし、人との出会いもおろそかに考えるようになるのでしょう。

 たとえば、自分はあと3日の命しかないと言われたとするとどうでしょう。今と同じような3日を過ごすでしょうか。突然慌てふためくかも知れません。刻一刻と迫る時間を大切にしようと思うかも知れません。会う人も、今日で最後になるかも知れないと思うと、人との出会いも違った意味を持つかも知れません。日頃会わない人にも会っておこうと思うかも知れません。あるいは、自分の愛する人と残りの3日を過ごそうと思うかも知れません。

 死を避けるようりも、死もまた人生の一部であると思って、死を意識して生きることは生をより深く生きることになると思います。実際、私たちの命は次の瞬間どうなるかわからないのです。はかない命なのですが、だからこそ愛おしく、大切にするのです。

 もともと日本人は仏教の無常観を持っていましたが、それはそのまま今を大切にする、命を大切にする心につながっていました。ここに命の尊厳さ、美しさを見ていました。桜は日本人の考え方、また仏教の考え方を象徴する花ですが、桜はいつ散ってしまうかわからない、はかない命を精一杯生き、花をあざやかに咲かせている。

 「明日ありとおもう心のあだ桜 夜半にはあらしのふかんものかわ」と言われて幼少の親鸞聖人は得度を許されたと伝わっています。また明日があると思っていると、夜に強い風が吹き、見ようと思ったとときには桜は散ってしまっているかもしれない、ということです。

 死を意識して、あるいは無常を感じて生きる中に、光輝く命を生きれるのだと思います。アメリカ人も死を「悪」と捉える傾向にあり、死をごまかしているように感じますので、お葬式の法話は死について話しました。

 嫌なことから目をそらすということも一つの解説方法かも知れませが、少なくともお釈迦さまの悟りということでは、真理を見る、真実をみるということ、目をそらさないことが大切です。

—TK拝

2009年2月18日

 メディテーションと言いますが、具体的にどんなことをしているか、話しておきます。

 日曜日に毎週お参りがありますが、その時に行うメディテーションはまず黙想、背筋を伸ばして、身体の力を抜いてゆったりとすわり、ゆっくり深く呼吸を下っ腹(丹田)で行ってもらい、心を呼吸に集中してもらいます。日曜のお参りは椅子に座って行います。

 続くお経もChanting Meditation と言って、姿勢は同じにして、呼吸に集中するのをお経の言葉に集中するようにしてもらい、口だけで読むのでなく、身体全体でお経を読むように心がけてもらいます。両手で本を持ち、お経の前と後は本を頭の上あたりまであげて頂くようにしています。

 念仏も「ナモアミダブ」を5分ぐらい繰り返して称え、Nembutsu Meditation と呼んでいますが、このときは両手を合掌してもらい、阿弥陀仏と私がひとつになっていると頭に浮かべ、あるいは阿弥陀仏の慈悲を感じながら称えるようにしています。

 念仏も称えていると自然になってくるものですね。アメリカ人の人たちが大きな声で念仏を称えておられる姿を見ると最初は何かぎこちなかったのですが、最近は自然な感じがします。このような念仏をしているのはニューヨーク本願寺のみですが、ニューヨーク節ということで見てやって下さい。

 念仏の声が本堂に響きわたる音には、念仏の力、バイブレーションを感じます。称えてこその念仏という感じがします。「先ず念仏せよ」です。

 毎週水曜日の午後7時から1時間半ほど、メディテーション・クラスということでセッションを開いています。これは日曜法座のように50人もの人が集まるのではなく、10人前後の少人数ですので、仏教会観の2階の部屋で床に座ってやっています。

 座布団の上に結跏趺坐、あぐらをかくような感じですわります。クッションでお尻の高さを調節し、足を安定させるように座ります。足下をしっかり据えるという感じです。正座でもいいのでしょうが、仏教の伝統的な座り方は結跏趺坐ですので、そうしています。

 この座り方に関しては、中国の浄土教の大成者である善導大師の『定善義』や『観念法門』に顕わされている座り方を基本にしています。親鸞聖人の絵像や座像の座り方と同じように座るのです。

 それから日曜と同じようじ、背筋をのばし、身体をリラックスしていきます。意識的に足から炭田、背中、腕、肩、首、口、目というように順々に力を抜いてゆきます。そして、長く深く、呼吸をしてもらい、呼吸の数を数えてもらうようにしています。

 山のように、何事にも動じないような感じで座ってもらいます。途中、数え損なったり、音が気になったり、雑念が押し寄せたりしたときは、それに立ち向かうというようよりは、それをそのまま受け入れ、横に置いておき、また呼吸に心を戻していくようにします。

 この黙想を20分強ぐらい行います。それが終わると、今度は立ち上がりWalking Meditationです。ゆっくりと歩いていることを意識して歩き回ります。普通歩いている時は自分が歩いているといことを意識しないで歩きますが、今、現在行っているすべてのことを意識していくのです。これは15分ぐらい行います。時に念仏を称えながら歩いたりもします。

 また座り、今度は10分ほど座り、その間に心を整え、呼吸を意識して、心の動きも意識していきます。それから読経を行いますが、たいてい英語の般若心経を読みます。ここには大乗仏教の空の思想があらわれていて、仏教の教えの基本を理解することにもつながると考えています。それに引き続き、念仏をしばらく称えつづけます。

 それから、経典の言葉を読み、それについて少し話しをします。今は法句経をよでいます。アメリカ人は自分の意見を言うのが好きなので、いろいろな話しが飛び交うこともあります。これも20分ほど行います。

 最後は慈悲のメディテーション、すなわちMetta Meditationをもって終わりにします。自分だけでなく多くの生きと生けるひとにもこの功徳を届けようとし、すべてのものの幸せと平穏と健康などを願っていく。自分から始め、その慈愛の輪をだんだん広げていくのです。

—TK拝

2009年2月19日

 メディテーションの続きですが、3ヶ月に一度ぐらいの割合で、「初心者のための仏教の瞑想と教え」のクラスを開きます。これは2時間ほどのクラスですが、仏教の基本的な教え、縁起の考え方や智慧と慈悲の世界、また東洋と西洋の考え方の違いなどを話すと同時に、礼拝の仕方から、座り方、お経の読み方なども詳しく話すようにしています。

 もちろんそれとは他に「浄土真宗入門クラス」も開いています。仏教の基礎の上にたって、浄土教を理解することが大切であろうと思っています。私の基本的な考え方は、アメリカ人の人たちに仏教にご縁を結んで欲しいということです。宗派は自分にあったものを選べばいいと思います。ニューヨークには、日本の仏教だけでなく、他のアジアの仏教もあります。

 「○○宗でなければダメだ」というのは、おごりだと思っています。もちろん、このニューヨーク本願寺は浄土真宗のお寺ですので、浄土真宗がいいという人にはどんどんお寺に来てもらっています。興味があればくればいいし、なければ来なければいいだけです。歎異抄(第二条)で「念仏をとって信じるにしても、捨てにしてもあなた方が考え決めることです」と言われた親鸞聖人の言葉はいいですね。

IMG_3184.jpg 日本は宗派根性があまりに強くなり、いつの間にか、お釈迦さまより宗派の開祖が偉くなってしまっているようです。新興宗教の場合も教祖信仰になる場合が多いですが、そうなるともはや仏教とは言えないかも知れません。

 お釈迦さまは自分を拝めとは言われませんでした、真理の法を見よ、と言われました。宗祖と言われるような人は皆そうです。法然聖人や親鸞聖人も本願を信じよ、念仏を称えよ、と言われましたが、自分を拝めとは言われませんでした。

 メディテーションをする場合も私の中では、これを通して教えに触れてもらい、法縁を結んでもらいたい、ということなのです。本願の世界、念仏の世界は「浄土宗」とか「浄土真宗」という宗派の枠を超えた広大な世界です。こればダメあれはダメというようなセコいものじゃないはずです。

 「念仏の世界につながらないようなものは仏教じゃない」「すべては念仏におさまるんだ」というような少々無茶な感じもありますが、それでいいのではないかと思っています。「念仏成仏是真宗」という言葉もありますしね。

 だから、瞑想も念仏におさまってくると考えてもいいのでは思いますし、念仏の助業というように考えてもいいのだと思います。ある意味でニューヨークでやっていることは、念仏への入口を多く作る作業をしている感じがします。

 その意味で、私がメディテーションをする時は、その据わりに念仏があります。念仏を称える時は、大きな声で堂々と、身体全体で称えるような気持ちで称えてもらいます。本願の念仏ですから、自信をもって称えればいいんですね。頭で称えずに、腹で称えるということです。理屈ではなく、まずナモアミダブと何度も称えることから始まります。

 話しが行ったり来たりですが、もうひとつ、3ヶ月に一度ぐらいに念仏リトリートとして、より浄土教的な五念門行を中心にして、半日ぐらいのセッションをしています。

 五念門というのは礼拝門、讃嘆門、作願門、観察門、回向門という5つです。これについては、入出二門偈という親鸞聖人の書かれた書物を参考にしてやってみているメディテーション・セッションです。

 礼拝門は、身体を使って阿弥陀仏を拝むということで、セッションでは、五体投地を何度も行います。

 讃嘆門では、口に阿弥陀仏の名を称えるということですので、読経や念仏を行います。

 作願門では、一心に阿弥陀仏を念ずることですので、瞑想をして座ることから始めて、出る息に合せて心で念仏をし、吸い込む息に合せて心で念仏をするようにします。

 観察門では、仏・菩薩、浄土の世界を思い浮かべることですので、はじめはゆっくり無言で歩きます。次に念仏を称え、合掌して、仏さま導かれ浄土への道を歩んでいると思いながら歩きます。

 回向門では、功徳を他に振り分けて往生させようということですので、慈悲の瞑想を行い、自分の幸せから始まり、すべての幸せを願うメディテーションを行います。メディテーションの最後の締めくくりです。

 これらに加えて、経典の短い文を選び、その言葉を何度も繰り返し、何を顕わしているのかを知識、経験をといった自分の持っているものをすべて使って理解しようとしてもらい、その言葉の中に自分自身を見いだしてもらい、最後には一言で自分にとってこの言葉は何を語っているのかを話してもらいます。ちなみに、今週行ったリトリートでは、お釈迦さまの涅槃に関わる言葉である「自らを灯火とせよ。法を灯火とせよ」でした。

 また、食事も沈黙で、ゆっくりと一つ一つの動作を意識し、どういう因縁で食している野菜がここにあるのかなどを思いながら、昼食をとります。時間はかかりますが、感謝の心で食事をとることができます。

 終わりに近い部分で、ディスカッションを入れ、質疑応答をします。その時に感なども言ってもらいます。

 だいたいこんな感じで、さまざまなメディテーションを試みているのです。それだけでなく、やっている私自身も結構学ぶことも多く、楽しんでいる部分も多々あります。

 そういえば、今回の参加者が面白いことを言っていました。「アメリカでは、動いてばっかりではなく、たまには座れ、と言うのがいい。」
—TK拝

2009年2月20日

 メディテーションに関しては、少々専門的になりすぎた感じですので、少し軽い話題に変えましょう。

 今日はお寺の会報の締め切り日でした。少し前にやっと仕上げまして、印刷会社に先ほど送りました。

 毎月会報を送るのですが、やっと終えたらまた次の会報の締め切りが来るという感じで、なかなか大変です。英語の部分と日本語の部分があり、日本語は基本的に私が担当で、英語の方へも毎月の法話と住職からの報告、来月の予定表を送ります。英語の方の法話、予定表はお寺のウェブサイトにも出ます。

 ウェブサイトはwww.newyorkbuddhistchurch.orgです。英語に興味がある方は訪れてみて下さい。実際、日本語で仏教の話しを読むよりも、英語で読む方が分かりやすいことが多いのです。日本語はどうも仏教用語が多いのでむずかしく感じると思います。

 ニューヨーク本願寺仏教会会報の名前は『こころ』ですが、この心という言葉は英語に訳す時に苦労する言葉でもあります。以前に会報の名前をどうするかということで、皆にアンケートをとり、心が選ばれたのです。黒人女性メンバーの方の提案したKOKOROが会報の名前として採用されました。

 心という言葉は英語に全く同じものをあらわす言葉がありません。実際、心という文字は日本語でもいろいろな意味で使われます。広辞苑には、人間の精神作用のもととなるもの、あるいはその作用として、1、知識・感情・意志の総体。2、思慮、おもわく。3、気持ち、心持。4、思いやり、なさけ。5、情趣を理解する感性。6,望み、こころざし、などがあげられています。

 それに、実際、仏教は心を大切にしてきた宗教でもありますので、そのあたりから、このKOKOROという言葉が選ばれました。心次第ですべてが変わる。心が世界なのだ、とまでも言われます。

 ちなみに、英語に訳すと、mind, heart, mindful heart, mind-heart などがあります。英語はものを分けて考えるようにできている言葉ですので、mind
は頭の作用だし、heartは心臓の作用、というように分けます。

 メディテーションはある意味、心の健康法と言ってもいいのでしょう。心身ともに健康でありたいものですから、身体だけでなく、精神の方もお忘れにならないように!

 不思議なものですよね、呼吸を整えると心も整ってくるのです。

—TK拝

2009年2月22日

 最近、ニューヨークでは風邪がはやっており、昨日は熱っぽくなってきて、これはいけないと思い、風邪薬を飲んで一日寝ておくことにしました。そのためコラムも一日抜けました。

 まあ、そのかいあってか、今日はすっきり元気な感じです。今週は締め切りが多くなるのはあらかじめわかっていましたので、なるべく予定を入れないようにしていましたので、ゆっくり休めました。

 お寺の会報も終え、来週の会議の報告書も終え、少々気を抜いてしまったため、風邪をひきかけたのかも知れません。

 昨日のEメールに、来週の火曜日の夜7時からユニオンスクェア・パークでチベットの若者がインターフェイス祈念式を行うので来てほしいというのがありました。残念ながら、火曜日にはカリフォルニアに出張することになっていますので参加できないと返事をしました。2月25日がチベットの新年(ロサル)にあたり、その前日にチベット人の人権擁護と世界平和を願い集会をチベットの若者がオーガナイズしたのです。

 昨年の夏、セント・パウロ&アンドリュー教会で、中国政府により殺された多くのチベット人のためのインターフェイス祈念式典が行われました。3千人ぐらいの人々が集い、私も仏教連盟代表として祈念を行い、スピーカーにはリチャードギアさんなども来ていました。中国を憎んではならない、慈悲の心で対処することを強調し、その上でデモンストレーションが行われました。

 昨年の3月の平和的なデモを行う僧侶たちに対して中国警察の暴力行使を行ったことにより、抗議行動が様々な場所で起こることとなり、多くのチベット人死傷者を出したのは記憶に新しいことだと思います。

 今の日本は仏教国とは言えない物質主義の国になってしまいましたが、チベットはまさに仏教国で、生活の様々な部分が仏教の価値観にあふれていると思います。非暴力、慈悲の実践ということはまさにお釈迦さま以来仏教が大切にしてきた伝統です。

 心の豊かさを説いてきた仏教の伝統を守り続け、仏、菩薩を敬い、観音菩薩の化身としてダライラマという宗教的、政治的指導者を持つチベットという国を支援していくべきだと思います。

 チベット人の人たちと多くの交流を持つようになったのは、ニューヨークに来てからですが、最初、チベット人たちの集まりに行って思ったことは、「今日は日本人もたくさんきているんだ」でした。そして、日本語でしゃべりかけてみると、何とみんなチベット人だったのです。

 中国人や韓国人の集まる会にも何度も出席したことがありましたが、そのときは日本人のような感じはするが、何か違う感じもするなあ,という感じで、思わず日本語でしゃべってしまったということはありませんでした。人種的にもチベット人は日本人に似ているということを肌で感じた瞬間でした。

 チベット仏教は日本では真言宗に近い仏教で、いわゆる密教です。いずれにせよ、私個人としは、仏教が生きているチベットを応援したいです。

 最近、非暴力を実践する仏教国が暴力によって被害を被っているように思われます。チベットもそうですし、スリランカやビルマなど同じ仏教徒として何かもっと援助ができないのかと思います。

 日本も欧米と肩を並べることも大切かも知れませんが、アジアの諸国で起こっている紛争などを平和的に解決するようにもっと貢献していくべきだと思います。自分の利益ばかりを考えるのもいいですが、苦しんでいるものを救おうという姿勢が日本には欠けているように思われます。

 「自分さえよければいい」では情けない。仏教的に言えば、自利だけではさとりの完成にはならない、ということです。苦しんでいるものを救ってこそ、あるいは利他を実践してこそ、さとりの完成があるのですね。

 政治・宗教を日本人はきらう傾向があるようですが、アメリカでは逆で、政治・宗教の話しになると、会話が突然活発になるようです。

 政治・宗教とは価値観の問題です。私は仏教の持っている価値観、世界観を大切にしたいと思います。

—TK拝

2009年2月24日

 先週末は友人に誘われて、グーゲンハイム美術館へ行ってきました。The Third Mind というテーマでアジア芸術、文学、宗教がどれだけアメリカの芸術家に受け入れられ、変遷・展開していったかを19世紀〜20世紀の作品(1860−1989)に焦点を当てて館内一杯に展示されていました。100人以上のアーティストによる絵画、彫刻、映像などさまざまな作品が展示されていました。

IMG_1663.jpg 説明を読んでみると、多くの作品が仏教のコンセプトを取り入れたものであったことに驚かされます。特に「空」の思想、禅の影響は大きなものがあります。

 空間を無くして埋め尽くすのが西洋ならば、空間を大事にし、多くの空間を作りだすのが東洋ということになります。有に価値を置く西洋に対して無に価値を置く東洋、直線的な西洋に対して曲線的な東洋、複雑な西洋に対して簡素な東洋、人間中心の西洋に対して自然中心の東洋、といった違いを意識しながら、作品が作られていました。

 西洋と東洋が益々近くなってきている中、これらの作品をみるにつけ、私たちは東洋とはどういう価値観を持っているのかしっかりと知っておかねばならないと感じました。表面的な交流ではなく、深い理解、経験に基づいた価値観を持っていることが、これからはますます必要とされるように思いました。

 全部の作品は見切れませんでしたが、私にとって一番印象に残った東洋的な絵はゴッホの Mountains at Saint-Rémyでした。

—TK拝

2009年3月 7日

 昨日は友人に誘われ、ジャパン・ソサイエティで行われていた文楽を見に行きました。日本では見に行ったことがないようなものをこちらで見る機会が多いのです。日本にいる時は敬遠していたような日本文化をアメリカに来て見るようになりました。日本文化の持っているその素晴らしさを再認識することが多々あります。

 文楽を見に行くのは初めてでした。文楽というのは人形浄瑠璃、日本伝統の人形劇です。パーファオーマンスの前に、文楽についての講演があり、それにも出席しました。歴史的背景、人形の操り方、いわゆる舞台裏のような部分を講演されましたので、とても勉強になりました。

 「太夫」という語りを行う人、「三味線」の奏者、そして3人で一つの人形を操作する「人形遣い」の三業で成り立つもので、それら3つが一体になってできる演芸だそうです。お互いに心が一つになっていなければならないのですから大変なことです。

 人形の表情を豊かにする技術はすごいものがあります。目の動き、眉毛の動き、口の動き、頭を上下させるなど、高等な技術がなければ作れないようなからくり人形です。綺麗な女性が突然、角がはえ、口が裂けた鬼の顔に変わるのですが、本当によくできていると思います。私が幼い時分にはテレビで放送されていた人形を使った南総里見八犬伝の「たまずさが怨霊」を思い出しました。その鬼に変わる姿を見た時、もう一つ頭に浮かんだことは、人間はある意味で、心の中に鬼をもって生きているのだ、ということでした。

 仏教的に言えば、鬼は怒りであり、欲であり、煩悩に狂わされた部分が表に現れたものであると言えます。善良な人が鬼となって狂うこともあります。自分は大丈夫と思っているかも知れませんが、かえってそんな人が一番危ないです。

 何はともあれ、公演の方もとてもよかったです。日本の持っているものをもっともっと大切にしていく必要があると感じた日でありました。最初に、文楽についての説明を聞けたことが、演劇を見る上で、一味違うものとなりました。

 ただ見て楽しむことも大切ですが、その裏と言いますが、目に見えない部分を知ることによって、文楽を数倍楽しめたように思います。精神を重んじる日本文化であるが故に、現代人にはその見えない部分をもう少し表に出す必要があるのだと思います。沈黙は金なりですが、それを言葉で伝えることもまた必要なことなのです。特に西洋社会にはなかなか沈黙は通じません。

 お経の言葉とは本来、言葉にならない悟りの世界を言葉によってあらわしたものですから、言葉を通して言葉を超えていくということです。形を通して形を超えていくところに日本文化の心に触れていく世界が開けるのでしょう。

 いわゆる日本文化を深く掘り下げていくと仏教と深く関わりのあることを知ります。文楽の内容も仏教に関わっていることが多く、今回の公演でも観音菩薩や念仏が何度も出てきました。日本文化と仏教は切り離せないようですね。

−TK拝

2009年3月13日

 昨日はゆっくりするつもりだったのですが、近くのリバーサイド教会で「死刑」に反対する集会があり、是非来てほしいということで参加しました。仏教の立場を述べ、短い読経をしました。ゲストには南アフリカ共和国のアパルトヘイト撤退運動で活躍し、ノーベル平和賞を受賞したデスモンド・ツツ大主教が来られていました。会場には千人以上の人が集まっていました。

 いつもインターフェイスの集会に出て感じることですが、どうも西洋の宗教においてはジャスティス(正義)ということを強調しすぎるように思います。私は正義という言葉があまり好きではありません。どちらかとアメリカに来てから嫌いになった言葉の一つです。

 西洋の歴史、キリスト教の歴史において、また現代においても正義の名のもとで多くの「悪」がなされてきているのです。戦争も多くの場合、正義の名によってなされています。よく言えば,聖戦ということになるのですが、基本的に自分を善、正しいと見なし、他を悪、間違いとするということです。

 正義を独占する、自分だけが真理を知っているのだ、という心がおごり、たかぶる、いわゆる傲慢な心ですが、それが多くの悲劇をもたらしてきたのが人類の歴史のように思えます。

 聖徳太子が十七条憲法の十条目に「人みな心あり。心おのおの執るところあり。かれ是とすれば、われは非とす。われ是とすれば、かれは非とす。われかならずしも聖にあらず。かれかならずしも愚にあらず。共にこれ凡夫のみ」という言葉を残されています。

 ここには仏教の立場が明確に示されていると思います。人間は皆完璧ではない、だからこそお互いに理解・調和し合って生きて行くことの大切さを述べられています。私がいつも正しく、相手がいつも間違っているとは限らない。私たちは聖でもなければ、かといって全くの愚かものでもない。

 正義の名をもって、人を裁くことより、本当に正義を行っているのか、間違ってはいないのか、また相手のことを本当に理解しているのか、ということに耳を開き、調和への道を模索することの大切さを教えてくれていると思います。

 「和を以て貴しとなす」という仏教の精神の上から考えるならば、どうも正義という考え方が平和をもたらすとは考えられないのです。かえって正義という考えこそが、多くの問題の原因と言えるのではないかと思うのです。

 私の番の時には、上のような内容のことを述べました。

 さらに、命を大切に思う心、「すべての生きとし生けるものは仏になる種をもっている尊い存在なのだ」(一切衆生悉具仏性)という立場に立って死刑のことについても考えるべきだ、とも述べました。

−TK拝

2009年3月14日

 昨日の続編です。こんな話しを思い出しました。善人の家と悪人の家というたとえ話しを聞いたことがあります。

 善人の家には善人ばかりが住んでいる。ここには善人のお父さん、善人のお母さんがいる。ある時、財布を忘れたお父さんが慌てて帰ってきて、玄関を駆け上ろうとしたところ、足もとにおいてあったバケツに気がつかずに、蹴つまずき、水をこぼしてしまう。

 「誰や、こんなことろにバケツおいてたのは!」お父さんは善人です。お父さんはいつも正しいのです。その声を聞いてお母さんがでてきて、言うのには「どこを見て歩いているのですか。今、掃除をしているのです。もっと気をつけて下さい。」お母さんは善人です。自分は悪くないのです。そうして夫婦がもめているのを聞いて、居間でテレビを見ていたおばあちゃんがでてきます。「あんたら何を言いあっているのか。いいかげんにしなさい。」もちろん、このおばあちゃんも善人です。

 さて、同じことが悪人の家でも起こりました。悪人のお父さんが財布を忘れて帰ってきました。そして、バケツを蹴飛ばして、水をこぼしてしまいます。

 「すまん、すまん。バケツに気づかずに水をこぼしてしまった」このお父さんは悪人です。悪いのは自分です。それを聞いて悪人のお母さんがやってきます。「すみません、すみません。通り道にバケツを置いた私が悪いのです。」やはり悪いのは自分です。それを聞いたおばあちゃんが出てきて言うのには「すまんことをしたな。私がちょっと気をつけていれば、バケツを横においてやったのに。」このおばあちゃんも悪人です。悪いのは自分です。

 さて、あなたはどちらの家に住んでいるでしょうか。自分が悪人であると思いながら生きているならば、戦争も起こりそうにありません。

 親鸞聖人の言葉として伝わる中に「善人なおもって往生する。いかにいわんや悪人をや」(歎異抄)という言葉が別の意味をもってくるように感じます。

 戦争を起こすのも大抵善人たちのようです。自分が正義だという考え方、自分のみが正義・真理を知っているのだ、という考え方が一番怖いということになります。

 また聖徳太子の「 是れ共に凡夫ならくのみ」( 私たちは共にみな凡夫なのだ )という言葉に戻りますが、すばらしことをする人間が、時にはつまらんこともする。かと思えば、つまらんことばかり言っている人間が、目を見張るようなことをすることもある。

 いつもいつも正しいことばかりをやっているような人間はいないし、悪いことしかしないという人間もいない。善人も悪人も自分の中にもっているのが人間だということでしょう。自分が必ずしも正しいとは限らないし、相手がいつも間違っているとも限らない。だからこそ相手の言うことに耳をかすこと、聞くことが大切なのです。

 実は,2002年の3月11日はニューヨーク世界貿易センターでの同時多発テロからちょうど半年が経った日でもありました。2004年、スペインのマドリッドでの列車爆破テロも3月11日でした。世界の様々なところでテロ事件は起こっていますが、テロの起こる原因を解決しないことには本当には何も解決しないように思われます。

 9・11同時多発テロが起こった後で知って驚いたことですが、アメリカでは「テロリストとは交渉をしない」というのが前提にあるのです。テロを未然に察知し、阻止するか、テロ事件が起こってしまった場合、それに敏速に対応できるようにしておくしかテロ対策はないのです。

 テロを起こすのにも理由があるわけだし、テロを起こすのも同じ人間なのだから、ただ敵対するだけでは平行線をたどるだけのようにも思われます。人間同士お互いに歩み寄れるような道はないのでしょうか。

 仏教の立場から言えば、身方と敵、自分と他者、というように区別して、自分だけの利益を考える世界から、共に人間同士なのだというような姿勢が培われなければなりません。自他一如という言葉であらわされますが、現代的に言えばブローバル思考ということになろうと思います。

 自分だけのために地球があるのではない、皆の地球なのです。たとえ相手がテロリストであろうと、悪党であろうと、相手の意見を聞こうとすること、相手の立場を理解しようとすることがあってこそダイアログ、対話が成り立つのです。勝ち負けの世界では平和と調和ということは実現されません。

 以前に、9・11テロから最初の日曜日のお参りを迎えるところまで話したのですか、その後のことも、この際、もう少し書くことにします。

—TK拝

2009年3月18日

 今日は『禅ZEN』という映画のニューヨークでのプレミア上映を見に行って来ました。曹洞宗の開祖、道元禅師の生涯を描いたものでした。道元禅師を演じた中村勘太郎さんも来られ、30分ほど話しをされました。

 映画の方は英語の字幕が入り、アメリカ人でも見れるようになっていました。ただ、日本語しかわからない人には大変だったと思いました。中国に渡った時の道元禅師の部分は、日本語の字幕はなく、英語だけになっていたのです。この中国語もただ台詞として覚えるだけでなく、監督さんの意向で、中村さんは一から中国語を習ったと言われたのには驚かされました。

 画像も綺麗で、あまり飽きない形でストーリーが展開しており、よくできていたと思いました。また同時に禅の映画らしく、座るシーンが頻繁にあり、道元禅師の潔白な性格なども結構でていて楽しませて頂きました。

 私自身は浄土真宗の僧で、禅宗のことはあまり知っているわけではありませんが、仏教の教えが表に出ていて、新鮮な感じがしました。私が招待したアメリカ人も皆全員が喜んでくれました。

 架空の人物でヒロインの「おりん」がこの映画を一般の人々から見ても分かりやすく、リアリティを持たせてくれたように思います。映画を見た人の中には,おりんを架空の人物ではなく、歴史的に実際にいた人物と見ていた人も多かったのではないかと思いました。

 赤ちゃんを亡くしたキーサゴータミにお釈迦さまが死人をだしたことのない家から芥子の実を持ってくればその子を生き返らせることができる、といった有名な物語を道元さんに使わせるのはちょっと考えさせられます。

 見ている側は、どこまで史実に基づき、どこの部分が架空に創り上げられたものかがわかりませんので、特にそのあたりは仏教を知らない人、また道元禅師を知らない人に、間違った情報を与えてしまうようになります。

 とにかく、私としてはもっと仏教を前に押し出した映画がどんどん出てほしいと思っています。それによって、日本人が忘れかかっている仏教の持つ価値観を再考するいい縁だと考えます。仏教は日本が持つ世界に誇れる宝であることを気づくべきです。

 終わった後で、テレビ局の人が、インタビューで「アメリカ人のがこの映画を見てわかるものでしょうか」と私に尋ねました。「今頃のアメリカ人は仏教に興味を持っている人も多いし、実際、禅堂へ行って座禅をしたことがある人も結構いますので、よくわかったという人も多いと思いますよ」と答えました。反って日本人の方が分からない、面白くないと思った人が多かったのではとも思いました。

 「あるがまま」ということがテーマであろうと感じましたが、今の「わがまま」な日本人そしてアメリカ人が考えねばならない大切なテーマだと思いました。とにかく私としては満足でした。

—TK拝

2009年3月19日

 また、世界貿易センターのテロ事件に話しをもどします。外からみると外国のある場所で起きたテロだという感じでどうしても客観的にしか見れませんが、私の場合は本当に身近な場所で起こったテロだけに他人のことのようには見れません。どうしても主観的、感情的な部分が多々でてきます。

 ニューヨークに来て、最初の1、2年は結構いろいろな観光地を訪れましたが、その後はあまり行かないようになりましたが、この世界貿易センターのツインタワーは別でした。同時多発テロで破壊されるまではよく行ったものです。
 
 ニューヨークですので、日本からもお客さんが来られます。その度に私が連れて行く場所は世界貿易センターだったのです。ツインタワーの最上階の展望台から見る夜景は最高で、日本からのお客さんは特に喜ばれました。このビルは日系アメリカ人の建築家ミノル・ヤマサキさんの設計で作られた場所ですので、ニューヨークの象徴というだけでなく、日系人にとっても誇り高きビルでありました。

 その他にもツインタワーにお客さんを連れていった理由がありました。お寺から一本の電車で行けること、夜7時ぐらいになると観光客もいなくなり、長蛇の列を待つ必要がないこと、ここからの夜景は私も好きで、何度行っても飽きないということ。さらにお客さんを連れて行く場合、以前に使った半券を持って、ニューヨークに住んでいることを証明できる自動車免許証を見せると私は無料になるということでした。

 私がお客さんを連れて行く時は、太陽が沈みかけるあたりから展望台に登り、西に沈む太陽をあの高いビルの上から見るのです。今でもその光景は目に浮かびます。

 ほとんどツインタワーのレストランには行ったことはなかったのですが、私の両親が二千年ミレニアムを迎える年末から年始にかけてニューヨークに遊びに来た時に、両親を連れて行きました。1月2日は私の母親の誕生日だったのです。

 そのビルは今は無くなってしまったのだなと思うと、寂しい感じがします。私にとっては思い出の多き場所でありました。

 それにしても、今までは平常に動いていたものが、突然と崩れ去っていく。仏教で諸行無常と説くのですが、言葉や概念でわかっていることと、実際に肌で感じることは違うのです。まさにこのテロ事件は無常の世界を私に実感させました。

 チャプレンのボランティアをしている時、船の甲板に上がり世界貿易センター跡に立ち上る煙を見ていると、自然と上のようなことが頭に浮かびました。

-TK拝

 

2009年3月20日


 私がボランティアした場所はファミリーセンターだけではありませんでした。赤十字の方から指定された場所にいくようになっていたのです。そのため何度かはグランド・ゼロで死体あるいはその一部が見つけられると届けられ、DNA鑑定等を行う場所でチャプレンとしてボランティアをしました。主に消防士、警察官が集う場所でした。もちろん一般の人は足を踏み入れることはできません。

 ここで、どうも納得できない光景に出会いました。一般の市民の遺体の一部が見つかった時は、別に変わった様子もなく自分の仕事をこなしているのですが、一旦届けられる遺体が消防士の一部であるとわかると、仕事を止めて列を組んで待ち、護送車に対して敬礼をするのです。

 死んでからも敬礼に値する死と値しない死があるとでもいうのか、という思いで、とても不愉快でした。このことに関しては私も報告をしておきました。実際に見たわけではないので確かではありませんが、後には消防士であろうと市民であろうと同じように敬礼をするようになったと聞きましたので、もしかしたら私の報告を聞いてくれたのかもしれません。

 命に差別があってはならないのです。少なくとも仏教的に言えば、すべての命は尊いのです。「一切衆生、悉具仏性」です。

 仏教の智慧、慈悲はまさにこのかけがえのない命に目覚めた世界であり、すべての命が尊い、そのような命を頂いている一切の衆生を救おうと誓われたのが仏・菩薩なのです。慈悲、慈愛と言葉でいうことは結構簡単ですが、このことを実践することは非常に難しいのです。

 味方も敵も、親しい人も憎い者も、善良な人も罪悪人も、被害者も加害者も、消防士もテロリストも同じように尊いということになるのですから大変なことです。このあたりは、キリスト教やイスラム教と仏教では身方が変わってきます。正しいものは神の側にあり、他は悪魔に仕える側というように二つに分けて考える西洋の考え方では、味方の命は大切だが、敵の命は大切でないし、善人の命は大切だが、悪人の命は大切ではないなどということになるのでしょう。そこに聖なる戦いが可能となっていくのです。

 そこには大切な命とそうでない命があるということになります。仏教的に言えば、私にとって私の命が最も大切であるように、他の人にもその人自身の命ほど大切なものはないのです。相手の身になって考えることができれば、すべての人々の命は大切なものであることがわかるのです。自分の好き嫌いで他の命を判断することは命の冒涜ともいえるのではないかと思います。

 社会でも役に立つ、役に立たない、頭がいい、頭が悪い、能力がある,能力がないということで人を分けていきますが、これを命の尊さということに持ってきては命は見えないのです。有用性と言いますか、道具を見るような目で見るなら、そこに見ているものは欠けても換えが効くものです。かけがえのある命になってしまいます。

 人間は自分の都合によって、ものを見ていくのですね。それを我あるいは我執と言い、迷いの中心だと見ます。役に立つ、立たないの判断は誰がするのでしょうね。考えてみれば自分勝手なものです。

 そこには欠け換えのない命は見えません。無我の世界に立って、初めてかけがえのない命の領域を見れるのでしょう。どんな人であったとしても、あなたが生きていることは尊いことなのですよ、と言えるのが平等の世界が今日必要だと思います。

takuhatsu_day1_12.jpgよくアメリカでは仏教のお坊さんの間でよく、合掌をして挨拶をしますが、社会のみがお互い合掌しあって生きていければすばらしいのになあと思います。会う人会う人に心の中だけでも合掌してみては如何でしょう。少しは見方が変わると思います。嫌な人も菩薩に見えてくるかもしれません‥‥。

—TK拝

2009年3月26日

 昨日の話題に日本の憲法改正についての話しがでました。今日は少し日本の平和憲法について話しておきます。

 日本での議論は現在の憲法はアメリカによって作らされたということ、特に自衛隊、軍隊の必要性、さらには核兵器開発にまでその論議が及ぶのでしょう。

 何故、今の日本憲法が日本人に受け入れられたのか、ということを忘れているように思われるのです。日本は昔から、和の国、大和というように平和を大切にしてきた民族であったのです。

 すなわち、平和憲法は日本人の本来もっている心にマッチしたからこそ受け入れられたのです。ただ無理矢理押し付けられただけはなかったということです。

 今、その憲法が問題になってきているのは、日本人が西洋化したこと、自分の思想を亡くし,何でも西洋、特にアメリカの言いなりになってきたためでしょう。キリスト教、イスラム教といった一神教の歴史は、戦争を肯定し続けて来た宗教です。

 正義のための戦争、神のための戦争、神の名の下に多くの殺戮を繰りかえしてきた歴史は今さら言うに及びません。それに比べると仏教が引き金となって起こった戦争は皆無といってよいほど微々たるものです。

 世界の中で、非暴力をもって国を治めた指導者を持つものは、仏教の思想に影響されたものばかりです。最も古いところで、仏教の精神をもってインドを治めたアショーカ王、チベット国王のソン・ツェン・ガンポー王、日本の聖徳太子はそれぞれの国で敬われ続けているリーダーなのです。

 最近では、インドのガンジー老、そのガンジー老に影響をうけたアメリカのキング牧師、さらにチベットのダライラマ法王などはがいますが、もとを辿ればお釈迦さまの非暴力、不殺生、慈悲の教えから来ているのです。

 非暴力、不殺生、慈悲、和というものを大切してきた日本の歴史を無視して、憲法改正を語るべきではないのです。武力、暴力をもって世の中を治める時代が明治、大正、昭和の初期であったと思います。その中で、時代を先取りしているのが今の日本の平和憲法だと思います。まさに平成(平和を成し遂げる)時代が迎えられたのもこの平和憲法あればこそだと思うのです。

 ただ先取りするだけではなく、日本人の本来もっている大和(大いなる和)の精神が平和憲法にあることを知らねばなりません。実際、仏教の和の精神は間接的ではありますが、キリスト教の指導者たちにも受け入れられ新たな時代を作ってきたのです。黒人人権運動のキング牧師、南アフリカのツツ大司教などはそのいい例です。

 日本の平和憲法は、戦争で傷つけあう世界情勢の中にあって、暴力ではない解決法を提示するという、ある意味で、これからの世界の憲法になり得る普遍性を持っているのです。

 私の好きな言葉に、源信僧都のお母さんが作られたという詩があります。
「後の世を渡す橋とぞ思いしに 世渡る僧となるぞ悲しき」

 あなたは、これからの世界を開いていく架け橋となると思っていましたが、世の中に迎合してうまく渡り歩く僧侶になってしまったとは悲しいことです、という内容になります。

 これは源信僧都が世に認められるようになって、その時に下賜された褒美の品を母に送った時に、その母が源信を戒める和歌を送り返されたものです。その後、源信僧都は名利を捨てて、仏道に励み、往生要集という有名な書物を書かれました。

 日本もただ世間をうまく付き合うだけでなく、「後の世を渡す橋」ような、世界を平和に導くような真の国際的リーダーとなっていってもらいたいと願っています。日本には諸外国にないいいものが沢山あるのです。持ち駒を大切にしてもらいたいのです。

 そろそろ聖徳太子の精神、あるいは仏教の精神に還る時期ではないかと思います。物で栄えて、心で滅びかけている日本人に今一度,和の心を取り戻す良い機会が与えられているのかもしれません。

ーTK拝

2009年5月 7日

 今日は共同通信の記者がインタビューにやって来ました。内容は経済危機によるお寺の影響を聞きたいと言うことでした。

 あるキリスト教の雑誌には、米国の経済危機にも関われらず、プロテスタントの礼拝出席者が減らず、献金にも力を入れているそうです。また失業や経済不安から、教会に助けを求める人々が全米各地で増えてるということで、仏教ではどうかということになったようです。

 実際に、お寺に来る人の中にも、経済危機の影響で失業した人も少数ではありますがいらっしゃいますし、これを機に引退した人もおられます。仕事が見つからずにニューヨーク市内の住むのをあきらめて引っ越しした人も知っています。

 何故お寺に来るのかをいつもいつも聞くわけもありませんので、わかりませんが、失業して何か心の支えを求めて来た人も耳に入っているだけれも数人はいました。ただ、全体としてはお寺のお参りに関してはあまり目立った変化は感じませんでした。人数も同じくらいですし、人が入れ替わり立ち替わり来るのはいつものことです。


 毎週日曜日に法話をしますが、結構、経済危機にあってそれを乗り切る道を折り込みながら話すことも最近多くなったかも知れません。先行きわからない状況であっても、今、私ができることをしっかりやっていくことの大切さを強調したり、中心になるものをいつも持っておくならば、だるまのように倒れてはまた立ち直ることができる、あるいはどんな状況であっても智慧と慈悲をわすれないようにするなどを話すこともありました。

 仏教の諸行無常ということ、すなわち,すべてのものが変化する、うまく行っていたものもいつ崩れるかわからない、また同時に苦しみも楽しみに変じるかもしれない不確定なものであるということも話しました。

 実は昨日も近所のキリスト教の牧師さんとも話していたのですが、そこの教会ではあまり変わりがないと言っておられました。ただ今まで会員になろうかどうかと迷っていた人が会員になってくれたと話していました。

 そういえば、お寺も経済状態が大変だろうと言って、すすんで寄付をしてくれた人が幾人かいたのを思い出しました。苦しい時に相手を思えるあたたかい心に出遇えることは嬉しいことでした。

 今回の経済危機は大きなものかも知れませんが、ニューヨークの人にとっては9・11同時多発テロに比べれば何てことはない、と思っている人も多いのではないのかと思います。あの9・11の惨事を乗り越えたのだから、今回も大丈夫という思いがあると思うのです。

 お参りの変化ということも、9・11の後のお参りは、最初の一ヶ月はそれこそ本堂が一杯で入れないほどの人が詰め寄せるという明らかな違いが起こりましたが、今回は静かなものです。お参りをするもの真剣さも違います。9・11は大波が打ち寄せてきた感じでしたが、今回の経済危機は少し波が大きくなったかなという感じです。

 何はともあれ、今日はインタビューを通して、経済危機と仏教の関わりを考えるご縁を頂いたのでした。

--TK拝

2009年5月 9日

 経済危機ということで、肝心なことを書き忘れたことに気がつきました。

 危機というのは「危ない」という字と「機会」「オポチュニティ」ということです。ただ危ないだけではなく、それが次の機会を生んで行く原動力になっていくのだということは大切なことだということです。

 実際、危機になってこそ本当の自分の力が試されるということでしょう。うまくいき、波に乗っている時は誰でも調子よくいくものです。壁にぶち当たった時に真価が問われるのでしょう。

 仏教でさとりのシンボルと言えば、「蓮華」です。この蓮華は「陸地には咲かず」といいますが、煩悩や迷いのない世界には「さとり」もないということです。言い換えれば問題のない、危機のないところにさとりはない。



 「蓮華は泥沼に生」じるのです。すなわち、煩悩、迷いの真っただ中にさとりがあるのです。すなわち、問題、危機の中にこそさとりがあるということになります。まさに邪魔になっていると思う煩悩や迷いこそがさとりの原動力なのです。その意味では、危機こそがこれから成長して行く中でもっとも大切なものなのではないでしょうか。

 実際に、人間は失敗を重ねて大きく成長して行くようです。失敗した時に、多くのことを学びます。それは病気をすることによって健康の大切さを知るのによく似ているかも知れません。うまく行かないで卑屈になっていしまうと困りますが、人生うまく行かない方がいいのです。その方が多くのことを学ぶでしょうし、苦労することになります。

 危機を逃がさず、しっかりと受け取り、乗り越えて,成長していける機会を大切にするということは仏教的な受けとめ方と言えるでしょう。

--TK拝

2009年5月13日

 火曜日はお習字を教えています。楷書、行書、草書で『大無量寿経』の重誓偈を毎月一行ずつ書いています。今月は「願慧悉成満」(願わくは慧ことごとく成満して)という文字です。朝から今日の課題の草書の手本を書いて、準備をしていました。

 習字は書く人の性格があらわれるようです。せかせかとあわてて書く人も入れは、ゆったりと書く人もいます。おおざっぱにできればいいという人もいますし、細かいところまでしっかりと書いてく人もいます。

 習字の時間は私にとってもリラックスできる時間です。ある人は習字をすると緊張して肩がこるとか、手本通りにいかないとフラストレーションがたまるという人もいますが、基本的には楽しんでやっていればいいのでしょう。


 筆は柔らかいのでいろんな表情があらわせるのです。筆圧によって、力強い線にもなれば、弱々しくもなります。筆運びの早さによって、どっしりとした字にもなれば、リズミカルな字にもなります。

 書道は腕を使って書くのではなく、身体全体で書くように心掛けます。小手先だけで書くものではありません。日本の習いごとというのは仏教に通じていることが多いのですが、書道もまさに、書を通して悟りの道を学んでいるのですね。

 日本の文化の根底に流れる精神面はまさに仏教に支えられているといってほぼ間違えないでしょう。「道」とつくものは悟りの道という意味になりますので、仏教的ものの考え、自己を本当に知っていくという仏教の精神があるのです。

 書道をはじめ、茶道、華道から柔道、空手道に至るまでの道がありますが、一つのことを極めれば必ず真理、悟りに至るのだという考え方です。仏教でいろいろな宗派がありますが、基本的には同じ考え方です。それぞれの宗派がそれぞれを極めることによって真理に至るのです。

 書道クラスでは、毎週午後12時半から2時まで行っています。私がニューヨークに来てから教えていますので、15年になります。

 オークションの掛軸に書く言葉を一つ決めました。ニューヨークの人はバタバタと忙しないとことがありますので、「静かな心」が必要な人が多いと思われます。

--TK拝

米国ニューヨーク、マンハッタンのアッパーウェスト地区にニューヨーク本願寺があることをご存じですか?浄土真宗本願寺派からアメリカに派遣されて20年、ニューヨーク本願寺・住職の中垣顕實さんは、9.11同時多発テロ現地で経験。現在、ハドソン川での追悼灯篭流し法要など、平和を訴えるユニークな活動を展開中です。そんな中垣さんが、マンハッタンのお寺から日々の思いをつづります。
中垣顕實
1961年3月11日、大阪生まれ。B型。1985年に渡米、その後、シアトル別院勤務を経て、現在、浄土真宗本願寺派ニューヨーク別院住職。米国を代表する仏教者の一人として、その活動が注目されている。前ニューヨーク仏教連盟会長。著書に『ニューヨーク坊主、インドを歩く』(現代書館)
→ニューヨーク本願寺HP
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