インターフェイス・センターのマットさんと朝食をとりながら、会議をしたのですが、その時の会話で、灯籠流しも人によっては面白い見方をされているのだと感じました。
イスラム教のイマン・タリブさんは、「インターフェイスの場でイスラム教代表者が招待されなかったならば、こじ開けてでも入っていくようにせねばならない時があるのだ」と言っていたそうです。それに対して、私の場合は、「仏教徒が招待されなかったのなら、自分からそれとは別にイベントを始めればいい」と企画されたものが灯籠流しだと感じたとマットさんは言います。
2001年にワシントン、ニューヨーク(ヤンキースタジアム)で開かれた9・11の追悼式に様々な宗教は招待されたが仏教者の代表者は誰もいなかったことは以前に述べました。彼の目には、9・11追悼の灯籠流しは、その追悼式に招待されなかった仏教徒たちが自分たちの手で、仏教徒のやり方で追悼を行ったものと理解したのでした。
そう言われてみれば、確かにそのように見えます。私の心の中でもどこかで、そのような思いがあったのかも知れません。
お経を称える声が聞こえ、お線香が焚かれ、灯籠流しという伝統行事を通して、追悼をしているという気持ちになります。アメリカの追悼式を見ていても何か足りないという感じがするものです。
アメリカ人は灯籠流しのイベントに参加してどう感じるのだろうか。しっくり来ない部分もあるのだろうと思います。それでも、灯籠流しに参加したアメリカ人たちから聞くコメントは、とてもポジティブなものが多いのです。「美しいセレモニーであった」「政治的なものはなく、一般の市民も参加できる有意義なイベントだった」「このようなイベントを企画してくれて有難う」等です。
このような声に励まされて、「やはり今年もやろう!」という気になるのです。感謝されることは本当に嬉しいものです。
もう9月に入ってしまいました。もしこのコラムをお読みの方であなたのメッセージを灯籠に書いてほしいようであれば、お知らせ下さい。今週末はカナダのトロントで仏教徒大会があり、そこでもメッセージを集めてこようと思っています。
--TK拝
