禅と念仏〜南無阿弥陀佛〜(星覚さんへ)

禅と念仏〜南無阿弥陀佛〜(星覚さんへ)


星覚さん、こんにちは。松島です。


奈良は少しずつ春の足音が聞こえてきました。梅の花が咲き始め、奈良に春を呼ぶ東大寺の修正会(お水取り)もいよいよ本番を迎えます。今回も大変興味深い話題が盛りだくさんのメッセージをありがとうございます。


禅にも念仏にも(もしかしたら僕たちの行い全てに)共通してある問題に「観測問題」が挙げられると思います。普通は往復書簡というのは本人達の間でのみやりとりされるものですが、ブログという誰もがアクセスできる場でどのような念が生じるのか、大変楽しみにお返事を書かせて頂いております。


「観測問題」という言葉、恥ずかしながら初めて知りました。リンクを参照したり、ググったりしましたが...いずれの解説も文系の僕には普段使っていない脳みそをゆさぶるもので正しく理解できているか不安です(汗)観測者には、ほんとうに起こっていることが見えにくくなるという問題が存在するということでしょうか。それぞれに違う道から仏道を歩む二人のやりとりですから、いろいろなフィルターが混じってしまいますね。仏の教えは正しく伝わってなんぼ、体験してなんぼということがあります。そういう意味では重要な問題ですね。


しかしまあ、そこらへんに注意しつつも、僕はゆっくりと静かに星覚さんに向けてメッセージを書くことを楽しむことにしますよ。外から道場を眺める人がいる気配がするなぁぐらいは感じながら。



〜ビジネスマンと僧侶の同じところ・違うところ〜


違いについてはどうでしょうか。お坊さんになって靖朗さんが変わったことを書いて下さいましたが、志や求めるところで「違い」はありますか?あるとしたら、それは一体どいうったものでしょうか?


改めて考えてみると、一つ大きな違いに気が付きました。それは「結果」重視か「プロセス」重視かということです。ビジネスの世界では基本的に結果が全てです。利益や数字を結果としてしまうと、金儲け主義といわれてしまいますが、なにか変化を起こそうとする時に結果・成果がどうであったか?期待した変化が起こったか?それが持続しているか?と確認することが大切です。それに対して、仏道はどうか。結果という意味では、この娑婆世界を去るまでわからないのではないか。僕の場合、極楽浄土というこの世を離れた世界に往生するという結果を信じて修行しているわけですが、教えを信じ修行をするというプロセスが仏教・仏道を歩むお坊さんにとって大切なことだと考えます。


とはいえ、ビジネスでも求める結果が得られなかった時に、その失敗を活かすというプロセスはとても重要ですから、もしかすると大きな違いはないのかもしれません...。


星覚さんが実践されている坐禅は「結果」と「プロセス」をどのように捉えられるのでしょうか?



〜彼岸寺をどうしていくか?〜


なるほど。常に「もっとこうしていこう」という工夫は例えば精進料理を作る際にも常に先人を超えようとする心がけと共通するものなのかもしれませんね。(『志を励まし、心を至して、庶幾くは淨潔なること古人に勝り、審細なること先老に超えんことを』典座教訓より)。


典座教訓。道元さんの至極のお言葉が詰まっていますね。こういう比較級の求道(勝りや超えん)というのは、欲望のようにとらえるのではなく、道を歩むためのモチベーションとなりうるものですね。


彼岸寺についてはどのようにしていきたいと考えているのでしょうか?なぜ靖朗さんは僕が彼岸寺に住職が必要と考えていると思われたのですか?ちなみに彼岸寺に住職が必要だとしたら実在の寺院同様、儀礼儀式を通じた覚悟が必要との意見に共感しました。


これまでの星覚さんの記事(以前ブログで書かれていた住職がいないまま一年が過ぎましたという文章)や、去年の暮にお電話でお話させていただいた時にこの話題をされていたので、そのように思っていました。僕の中ではすっかり過去のことになっていましたので、お電話いただいた時にはハッとされられたものです。僕には気づかない論点を提示してくださる星覚さんの存在のありがたさを改めて実感しました。そうそう、僕の携帯電話には毎日たくさんの着信がありますが、「非通知」でかかってくることはほとんどありません。「非通知」は星覚さんがベルリンから緊急でかけてきてくれているものというのが僕の「非通知」で、年に何度かいただくそれを楽しみにしていますよ。


彼岸寺は仏教メディアとしてどんどん発信者と受信者がつながっていく場所で在り続けたいですね。直近でやりたいことがあるとすれば、ブログシステムのバージョンアップでしょうか(笑)僕にできることといえば、開発いただく方を応援するぐらいしかないのですが。



〜お寺の住職とはどういう存在なのか〜


靖朗さんは「お寺を預かっている」といいますが「誰から」預かっているのですか?また「お寺からの給与所得」は靖朗さんが「お寺から」お給料を頂いている、ということでしょうか?


「だれから」預かっているのか?星覚さんらしいご質問ですね。うれしくなります。お檀家さんからでしょうか?お墓詣りされる方々からでしょうか?先代住職からでしょうか?ご本尊さまからでしょうか?浄土宗という仏教教団からでしょうか?それとも?


仏教ではよく縦糸と横糸の話をしますね。住職はお寺をだれから預かっているのか?という難問もこの話が助けになると思います。僕が住職をしている安養寺(あんようじ)というお寺は、江戸時代に浄土宗のお坊さんによって開山されました。その前にこの土地には奈良時代に活躍した行基さんが活動していたという言い伝えもあります。浄土宗のお寺ですから、お念仏のみ教えを広めるという思いが過去から託されていると受け止めています。これが縦糸。そして今この時代にお寺を通じてご縁を頂いた有縁の人々とのつながり。これが横糸。


二年前に住職になり、晋山式(しんざんしき)がありました。「不思議な御縁をいただき本日住職を拝命致しました」と挨拶しました。この過去から現在への縦糸と、現在の横糸がまじわるすべてのご縁(に関わった人たちから、お寺)を預かっているということになりますでしょう。もちろん、現在から未来へとご縁を紡いでいかなければならないのは言うまでもありません。


さて、お給料ですが、これは宗教法人安養寺から支給されています。他にもいくつかの会社や学校から給料や支払いをうけていますので、毎年この時期になると確定申告のため税務署に赴いています。


ところで星覚さんは個人事業主になるのでしょうか?ベルリンと日本の両方で所得があるのでしょうか?年末の確定申告はされるのですか。その場合は日本でされるのですか?そうそう、職業を聞かれた時になんて答えますか?僕は住職と答えたり、浄土宗教師と答えたり、お坊さんは職業じゃないしなと思ったり毎度楽しく葛藤しています。


そうそう、「雲水」という存在にもとても興味があります。禅僧はすべて「雲水」なのでしょうか?曹洞宗にかぎるのでしょうか?それとももっと限定されるのでしょうか?21世紀は移動の時代ですから、なんとなく身軽なイメージのある「雲水」さんの軽やかさがとても魅力に感じます。



〜禅の教え・念仏の教えを広める〜

ロジックと聞いてまず一番に浮かんだのは念仏を広めるロジックです。念仏は聖俗問わず誰にでも実践できる、というところが素敵なところだと思いますが、そのロジックでいくとお坊さんは必要なくなってしまうのではないかと思います。


お坊さんはなぜ必要なのか?とてもおもしろいトピックですね。道を歩む人、求道者といういみでは僧俗わける必要ありませんしね。道を歩む先達として「お坊さん」という存在が必要なのかもしれませんね。しかしまあ、誰にも実践できるといいながらなかなかできないのが我々お互いではないでしょうか。念仏の教えは他の教えに比べて優れているのではありません。ただ、今この時代(末法の時代)に誰もが実践可能な教えは念仏である、ということなんですね。プロダクトの技術的な優位性を訴求するのではなく、使いやすさ、時代に即しているか?というユーザー視点が念仏の特徴でもあると思います。


「称名念仏」という言葉、恥ずかしながら初めて伺ったのですがその裏にはどのような「ロジック」があるのでしょうか?なかなか言葉で説明するのは難しいのかもしれませんが、可能な限りで結構ですので聞かせて頂ければ幸いです。


はじめに言葉の定義ですが「称名念仏」(しょうみょうねんぶつ)とは声に出して、南無阿弥陀佛(なむあみだぶつ)と称える行為を指します。「南無」と「阿弥陀佛」の二つの言葉からなる六字で、阿弥陀さまという仏さまにおまかせしますという意味です。何をおまかせするか?苦しみのこの世を離れ、苦しみのない極楽浄土に往き生まれることをおまかせするのです。おまかせするというと、神仏頼みの現世利益的な行為、またはいわゆる世俗的な意味での「他力本願」を想像してしまいますが、その裏に一番重要なロジックの核心があります。


念仏は仏さま側の誓いの存在が大きな拠り所、根拠になります。仏が「わが名を称えるもの、呼ぶものを必ず救いとる」とおっしゃってくださっている(浄土宗が大切にしている浄土三部経に依ります)。だから、救われたい我々は「称名念仏」をすることで、苦しみのない世界に生まれ変わることができるというものです。


仏の裏付けがある、だれもが実践可能な行為、それが「称名念仏」ということになります。


曹洞宗、道元禅師の「只管打坐」にはどのようなロジックがありますか?また八万四千の法門、たくさんのお経の中で曹洞宗が大切にされているお経はありますか?この辺りの話題はややマニアックな信仰の世界の話になりますが、とても大切なやりとりですね。


〜お布施とはつまるところ、仏教が説く善い行いすべてのことではないか〜


たしかに。とてもシンプルで、鋭い御意見かと思います。あとは善悪をどうとらえるか、でしょうか。たとえば極端ですが戦争も誰もが考える「善い行い」を積み重ねた結果生じてしまうものです。子供でもわかるような善悪のことをどのように伝えていくのか、実践するのか、そこが鍵になってくるのかもしれませんね。


よく「善因善果悪因悪果」といいますが、あれには少し違和感があります。


「善因楽果悪因苦果」といったほうがよいのではないか。善い行いをすれば、楽となる。悪い行いをすれば、苦となる。結果である出来事が、自分にとって「楽」か「苦」かは感じることができるが、結果が善い結果であるのか、悪い結果であるのかは判断できないのです。「楽」と感じる結果があるということは、善い行いをしたんだな。「苦」と感じる結果があるということは悪い行いをしたんだな。と行いの善し悪しも結果から判断するということになる。仏教ではこの世は全て苦しみの世界であるといいますから、「楽」とはなにか?ということになります。娑婆で感じる「楽」は新しい「苦」のはじまりとも感じますね。では「楽」とはなにか?僕が求道する道のさきにあるのが「極楽浄土」ということになります。


少し、話がややこしくなってきましたが、つまるところ、善悪の判断はつけることができないということなのです。星覚さんの仏教観としてはいかがでしょうか?そうそう、いま南直哉さんの新著「善の根拠」を読み始めています。


ではまた。松島靖朗拝 合掌 南無阿弥陀佛



松島靖朗 (まつしま せいろう)
>>プロフィールを読む 浄土宗法性山専求院安養寺副住職。1975年生まれ。早稲田大学商学部卒業後、9年間のITビジネスマン生活を経て奈良県にある実家のお寺に戻り浄土宗僧侶として修行の日々を送る。旅行・登山・サーフィン・温泉・美味しい物が好きで毎朝読経のあとの日経新聞が欠かせません。